2003-01-01から1年間の記事一覧

トイレでげえげえと戻す音がする。 水が流れる音。 それがおさまると、うめき声。 また何かを吐く音。 落合香奈(おちあい かな)は濡れた髪にタオルを押し当てながら、雑誌のページを繰った。もちろん損をするとはわかっているが、それでも福袋は大好きなの…

俺には腕力も体力もないけど、反射神経とスピードはあるつもりだった。だから、そう、きっと五キロはあるツナギのせいなのだろう。鈴木秀美(すずき ひでみ)さんに駆けっこでまったく追いつけなかったのは。 今日から二日まで詰め所で示威部隊に加わる。今…

 11:25

「昨日も来てたんですか?」 国村光(くにむら ひかる)の驚きの声に星野幸樹(ほしの こうき)は頷いた。昨日は自衛隊員として、今日は探索者としてだと言う生真面目なその顔に藤野尚美(ふじの なおみ)が敬意のこもった視線を向けた。 「まあつまりあれだ…

 10:08

昨日からお店はお休みで、早起きの必要はなくなった。それは嬉しい。でも憂鬱な仕事だわ、と鶴田典子(つるた のりこ)は倉庫のスイッチを手探りで探しながら考えた。迷宮街の道具屋は商売をする上で非常に大きなメリットを享受していた。最大のものは競合す…

葵「大丈夫だよ。豪勢なもの作る気ないし。ネコの手も一つあるし」 翠「にゃー。食器洗うにゃー」 葵「いやそれ準備じゃないから。片付けだから」 翠「にゃー。熊肉でよければ裏山から狩ってくるにゃー」 葵「いやおせちに熊肉使わないから」 今年もあと二日…

 22:34

ふううううううと息を吐く声が聞こえる。なんとなしに妻のその声を耳に留めながら、笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)は目の前の男のコップに焼酎を注いだ。彼は奥島幸一(おくしま こういち)という名で、笠置町夫婦と同じく政府から月10万円の助成金とと…

 12:32

腹減った腹減ったと唱和しつつ示威部隊が地上に戻った。留守番役の太田憲(おおた けん)、落合香奈(おちあい かな)がお疲れ様と出迎え、ビニール袋の中から折り詰め弁当を取り出した。そして大きなお鍋。これは落合が北酒場のコックに頼んで作ってもらっ…

 20:57

ぱっと見た限り普通の地方都市って感じなんだな、というのが夕方から歩き回った木村ことは(きむら ことは)の印象だった。あえて違いを探すなら車の往来が少ないから車道を平気でママチャリが走っていること、道行く人間のうち肥満者の率が甚だしく低いこと…

ふー。さあ、カレンダーにまたバツをつける日々が始まる。今度は三月九日。ゼミの女性陣の卒業旅行の前、由加里だけ関空出発にしてくれるとのこと。あと二ヶ月とちょっとだ。夕べ越谷さんに訊いたら鞍馬温泉までは自転車が簡単に通行できるくらいの雪だとい…

 15:28

常盤浩介(ときわ こうすけ)は、読んでいた文庫本から視線を上げた。目の前には白衣を着た女性が一心に書き物をしている。さきほどまで隣接する製品の抽出ブースにこもっていたから、検査結果を整理しているのだろうか。ここは迷宮の出口を囲むように建てら…

 7:42

高崎和美(たかさき かずみ)は階段の上に男の影を見つけて顔をこわばらせた。木賃宿と呼ばれる彼女の勤め先、三階部分は基本的に男子禁制なのだ。四階から上に行くために通る可能性は確かにあるが、男性はエレベーターを使用するように暗黙の了解ができあが…

今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが11月1日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け…

 14:44

それではよろしくお願いします、と頭を下げると妹――鈴木秀美(すずき ひでみ)と同居している落合香奈(おちあい かな)という女性は心細げにうなずいた。あと一日でも一緒にいてあげたら、いいえ、お正月くらい実家に連れて帰ったら。妹の世話を億劫に感じ…

 13:25

妹の名前を呼びながらドアを開けたら見知った顔が振り向いた。部隊の仲間の常盤浩介(ときわ こうすけ)だった。最近妹と仲がいい。お邪魔してますという顔に微笑んだ。 「今日私帰らないから、ご飯つくるならいらないよ」 「りょうかい。どこに行くの?」 …

 8:27

夢オチだったのか、とぼんやりとした世界の中で思った。明日死ぬかもしれないと思って眠れなかった夜、皮膚を裂く刃物の痛み、生き物の死体を削り取る刃とどろりとした鬱血が流れ出す感触、親しかった人間の死に「死んじゃったのか」としか思わない異常性・…

今年の探索はすべて終了。昨日も書いたように今日は第二層までの探索とエディの部屋だけで早めに終わらせた。もう年末だからだろうか? エディの部屋も新参(といっても、俺たちと一ヶ月弱しか違わないんだけど)の部隊が二部隊いるだけだった。彼らは地力が…

 11:23

車両に乗り合わせた女性は目的地が同じようだった。決して美人ではないがほんわりと柔らかい印象が少し気になっていたが、出迎えてくれて手をつなぐ相手がいる女を追っていても仕方ない。それよりも、と男の方に意識を向けた。ひきしまった身体つきと立ちの…

 10:23

ぼんやりとコーヒーの表面を眺めていたら、視界の端っこにすっとピーナッツの皿が差し出された。見上げるとバーテンの小川肇(おがわ はじめ)がこちらを眺めていた。手にはドリンクバイキングのマグカップをもっている。甘いにおいはココアだろうか。「遠慮…

京都の冬は厳しいというけれど、まだそれほどは実感していなかった。理由はいくつかあると思う。去年の寒さなんてそれほど意識していないというのが一つ、明らかに東京にいた頃より筋肉の量が増えたので気温に左右されにくくなったというのが一つ、そしてな…

 20:32

「あ、また転んだ」 北酒場には時ならぬ特設リングが出来上がっていた。その中央で行われている見世物を眺めながら落合香奈(おちあい かな)は呟いた。派手な音と一緒に歓声が沸きあがる。いま転んだのは高田まり子(たかだ まりこ)の部隊の前衛で、神足燎…

 18:20

朝会の列で最後尾を譲ったことがなかった。小学校に入学した時点で143センチ、中学校入学時には176センチ、中学生活で192センチまで伸び、あとは大学までかけて現在の203センチになりそこで止まった(正直ほっとした)。そんな珍しい人生を過ごしていた津差…

 12:30

「はい翠です」 『真壁です』 「うん、どうしたの?」 『いまどこにいる?』 「伊勢丹。孝樹にいちゃんと」 『お、おお! ということは?』 「下川さんと」 『なんだ、二人きりかと期待したけど――ってことは、水上さんも夕飯一緒に?』 「ううん、京野菜食べ…

気分が悪い。 原因はわかっている。津差さんの部隊の新しい治療術師、幌村幸(ほろむら みゆき)くんと話したからだ。彼は俺より一つ年上、一浪して東大だそうだ。努力の結晶と安泰な将来の可能性を蹴って迷宮街に来た彼はそういった経歴を隠すでもなく誇る…

 9:11

過去、71人のベトナム戦争従軍者を取材したことがあったがその際に強く感じたことは彼ら戦争経験者は一様にそのことに関して口が重くなる傾向があるという事実だった。ありもしない戦争経験(それは映画のあらすじに酷似していた)を自分の記憶として吹聴し…

『ノーモアクリスマス!』 パレードは首謀者の真城さんが突然「いやホントごめん! マジで! あとよろしく!」と言いながら裏切ったものの、参加人数24人と犬3匹という立派な成果をあげた。馬鹿ばっかりだ、この街。先頭は真城さんに選んでもらった高級服に…

 16:13

私もパレードいいですか? という娘の顔を見て津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は怪訝に思った。そこにいたのは笠置町姉妹の妹だったからだ。色恋は不器用という印象の姉妹だったけれど、妹の葵はなんとか彼らの部隊の罠解除師と関係を築きつつあると思い…

 10:18

ボン、ボンと腹に響く音を立てながら前田がベースを調弦している。その音にあわせてコーヒーの表面はさざなみを立てていた。じっとそれを見つめていたら、浮かないねと前田が声をかけてきた。俺はけっこう覚悟ができてたけど。その言葉に佐々木明子(ささき …

翠の一言にドキッとさせられる。 最近北酒場でよく噂されているのよねーとのことだった。この娘は生まれか家庭環境かわからないけれど非常に耳がいい。しかも入ってきたもの全てにとりあえず気を配っているらしく、離れたテーブルの会話などを突然耳打ちして…

 10:47

後藤が勤める会社は商社だったし、何しろ前代未聞の分野だったので製品抽出に適した研究機関はもっていなかった。だから迷宮出入り口に併設されたそれはこの街の構想ができあがった一昨年の冬から急遽、国内各研究機関から人員と機材を集めるかたちで成立し…

日陰の雪もほとんど溶けた暖かい一日。 常盤くんからメールあり。以前書いた、事故を起こして意識不明だった彼らの友達が亡くなったのだそうだ。今日が本通夜、明日は葬式だけど明日の午後中に帰ってくると言っていた。残りの四人で話し合った結果、水曜日は…