笠置町葵

 07:50

くらくら痛む頭を落ち着けようと水を口に含む。明らかに飲みすぎたのは、やっぱり仲間と別れるのがさびしいからだ。いろんなことを話して、いろんなことを聞いてもらった相手だ。命を助けて助けられた濃い付き合いをした相手だ。一年しか年上じゃなかったけ…

 18:40

顔を寄せてきた笠置町葵(かさぎまち あおい)は首筋までがもう真っ赤に染まっていた。普段はゆるくウェーブのかかった髪を今はまとめあげ、ポニーテールにしている。姉とは違い色を抜いていない烏羽玉の後れ毛が妖艶に揺れた。ふっと視線の先には星野幸樹(…

 09:07

ドアベルの音には予感があった。覗き窓からはそのとおりの男の顔が見えた。 「毎度」 この男がここ京都で染まった唯一の言葉遣いだ。みんな多かれ少なかれ、とくに北陸や中部、そしてなぜか東北の出身者は一様に語尾に「〜や」がついていく中でこの男だけは…

 13:37

もとの皮膚の色がどうだったのかわからない。しかし六人で見下ろすその化け物の肌は、明らかに不自然な紫色をしていた。禁術の産んだ死の不健康な何かに満たされたその身体はしかしまだ息があり、ずるずると奥へと這っていく。 「なんだかかわいそう」 笠置…

 13:36

葵! と先頭左翼を走る真壁啓一(まかべ けいいち)から声がかかった。俺を援護しろ! 二人はいい! 背中にべっとりと汗をかく緊張と恐怖の中で改めて、すごい人だと感嘆した。先陣をきって走りながらも自分が一番弱いことを簡単に認め、自分は全員が生きる…

 13:35

たぶんビンゴですよ水上さん。作業員たちがプロの面目躍如であっという間に広げて二人ずつなら通れるようになった空間に入り込んですぐ、常盤浩介(ときわ こうすけ)が言った言葉だった。壁を抜けたそこはかなり広くまっすぐに東に向かっている。ヘッドライ…

 13:06

ちょっと、ごめん。呼ばれてやってきた南沢浩太(みなみさわ こうた)はそう断ると床の上に大の字になった。たちまちのうちにいびきをかき始める。その姿に真壁啓一(まかべ けいいち)は自然と頭を下げた。自分が無茶を言っていることがわかったからだ。 大…

 07:08

葵ちゃん! と嬉しそうな声がして真壁啓一(まかべ けいいち)はそちらを見やった。そこにはそろそろ壮年を過ぎようかという男性が一人立っていた。笠置町葵(かさぎまち あおい)に向かって笑顔を向け久しぶりだなあ、大きくなってと肩を叩いている。葵もそ…

 10:30

男の子なら誰だってあこがれる職業があると水上孝樹(みなかみ たかき)は思っている。「運転手さん」がそれだ。それもタクシーなどではなく電車やバスといった巨大なもの、飛行機や船という非日常的なもの、そして工事現場の機械を操作する姿も子どもの心を…

 08:20

洞窟というのだから富士のふもとの風穴や氷穴を思い浮かべていたが、それは良いようにも悪いようにも裏切られた。あれほどには狭苦しくなく、電気が完全に通っているので暗くもないことは嬉しい予想外だった。しかしライトは両側の壁から照らされるために自…

 21:21

何度目かの深呼吸。それでも指先の震えはとまらない。伏せた視線の先に組まれたそれをじっと見つめるそぶりで拒絶しておきながら、肌は外界のことを懸命に探っていた。ちらちらと視線が送られてくることを感じる。そのたびに心が痛む。その視線、おそらく心…

普通夢なんてものは起きて十秒も覚えていないもの(少なくとも俺はそうだ)だけど、その朝のいやーな汗にまみれた夢ははっきりと覚えている。第四層を上から見下ろしていた。葵らしき真っ青のツナギをつけた誰かが誰かを抱き起こし、覆い被さる青柳さんの黒…

 23:02

北酒場の一隅、長方形の卓が並ぶ個所で目当ての二人を見つけた。部隊の仲間の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)はすぐに自分に気づいたらしく、ジョッキを持つ手を上げた。その隣りでは姉の翠がぐったりと突っ伏している。笠置町葵(かさぎまち あおい…

 12:10

それは奇妙な光景だった。しんしんと雪が降り積もる冬の日、身が白くおおわれることもかまわず二人の女性が立ち尽くしている。その前には小さな木製のテーブル、上には家庭調理用のデジタル計量器が乗っている。計量器の上には小さなぬいぐるみが座っていた…

 10:47

自動ドアを通った笠置町葵(かさぎまち あおい)を雨の匂いが迎え出た。おっと、と思う。朝には振り出しそうだった雨、念のためにリュックに折り畳み傘を入れてよかった。自分は。自分を待っている男は――いた。かなり大きな折り畳み傘をさしてぼんやりと車の…

今日の女帝。 「まさかこんな下賎なところに住まうハメになるとは思わなかったわ」(わずかな着替えだけ持って木賃宿を見上げたセリフ) 今日は探索の日。とても危ない局面があった。何度目かの戦闘で死体食いといわれる小柄な生き物(骸骨やなにかと同じく…

 12:32

片岡宗一(かたおか そういち)はその紙片を見下ろして口をへの字にまげた。その紙片自体は昨日事業団職員の一人から見せられたもの、コピーがコピーを生んでおそらく今では今朝の朝刊の数よりも多く出回っているであろうものだった。 ちなみに1,000人を超え…

台風一過。といいたくなるほどいい気分だ。昨日の朝、原因不明の体調不良に見舞われたけれど一日かけて水を飲んでは吐いてを繰り返した結果、かなりいい感じに身体をクリーンにすることができた。やっぱり運動しないで食べてばかりいたのが原因だと思う。難…

 19:21

エレベーターに乗ると人は階数表示を眺めてしまう――そんな言葉を以前テレビの中から聞いたことがある。最近では『エレベーターに乗ると階数表示を見てしまう人が多い』という法則もまた有名になり、あえて他を、前方か、足元か、携帯(これは多い!)か、あ…

 11:24

どうして子どもたちになつかれるのだろう? とは笠置町葵(かさぎまち あおい)の積年の疑問だった。子どもの相手がうまいわけでもなく笑顔がいいわけでもなく、それでも近所や親類の子どもたちにはよくなつかれた。今日も正月とて集まってきていた子どもた…

葵「大丈夫だよ。豪勢なもの作る気ないし。ネコの手も一つあるし」 翠「にゃー。食器洗うにゃー」 葵「いやそれ準備じゃないから。片付けだから」 翠「にゃー。熊肉でよければ裏山から狩ってくるにゃー」 葵「いやおせちに熊肉使わないから」 今年もあと二日…

 22:34

ふううううううと息を吐く声が聞こえる。なんとなしに妻のその声を耳に留めながら、笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)は目の前の男のコップに焼酎を注いだ。彼は奥島幸一(おくしま こういち)という名で、笠置町夫婦と同じく政府から月10万円の助成金とと…

 12:32

腹減った腹減ったと唱和しつつ示威部隊が地上に戻った。留守番役の太田憲(おおた けん)、落合香奈(おちあい かな)がお疲れ様と出迎え、ビニール袋の中から折り詰め弁当を取り出した。そして大きなお鍋。これは落合が北酒場のコックに頼んで作ってもらっ…

 13:25

妹の名前を呼びながらドアを開けたら見知った顔が振り向いた。部隊の仲間の常盤浩介(ときわ こうすけ)だった。最近妹と仲がいい。お邪魔してますという顔に微笑んだ。 「今日私帰らないから、ご飯つくるならいらないよ」 「りょうかい。どこに行くの?」 …

京都の冬は厳しいというけれど、まだそれほどは実感していなかった。理由はいくつかあると思う。去年の寒さなんてそれほど意識していないというのが一つ、明らかに東京にいた頃より筋肉の量が増えたので気温に左右されにくくなったというのが一つ、そしてな…

 20:32

「あ、また転んだ」 北酒場には時ならぬ特設リングが出来上がっていた。その中央で行われている見世物を眺めながら落合香奈(おちあい かな)は呟いた。派手な音と一緒に歓声が沸きあがる。いま転んだのは高田まり子(たかだ まりこ)の部隊の前衛で、神足燎…

 9:11

過去、71人のベトナム戦争従軍者を取材したことがあったがその際に強く感じたことは彼ら戦争経験者は一様にそのことに関して口が重くなる傾向があるという事実だった。ありもしない戦争経験(それは映画のあらすじに酷似していた)を自分の記憶として吹聴し…

 16:13

私もパレードいいですか? という娘の顔を見て津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は怪訝に思った。そこにいたのは笠置町姉妹の妹だったからだ。色恋は不器用という印象の姉妹だったけれど、妹の葵はなんとか彼らの部隊の罠解除師と関係を築きつつあると思い…

第三層への初挑戦は無事に終了した。第三層では最強の怪物である緑龍に対しても無傷で勝利した。本当に強いなうちの部隊というか笠置町葵は。他の五人が束になっても彼女一人にかなわない自信がある。 それでも強い化け物の代名詞とされている緑龍を幸運とは…

 15:23

ツナギの素材や厚さには職業と体力に応じて差はあったが、ブーツはみな同じものだった。スキーのブーツを皮製にしたと思えばいいだろうか。スネの半ばまで覆う牛皮には足の甲に二箇所、足首〜すねに二箇所の留め金があり調節/着脱ができる。かつては紐を使…