視線は赤いリンゴに注がれている。それは自分の大きな手のひらと長くて太い指とで半ば以上隠されていた。手のひらも指も筋肉は緊張し膨れ上がり果物に伝える力の大きさを伝えていた。だから近寄ってきていた人間の感想は当然といえた。太田憲(おおた けん)は無遠慮に、もしかして津差さん握力ないですか? と問いかけた。
津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は視線を林檎から外し、部隊の罠解除師である男を見上げた。力を抜かれた肘から先は一回り細くなったように見える。別に鍛えているわけじゃないからな。剣を振り回す程度の力があれば十分だと思っているよ。
でも、と言葉をはさんだのは大野ふみ(おおの ふみ)という娘だった。津差や太田と同じく第二期の初期に登録した罠解除師で現在は的場由貴(まとば ゆき)とともに通称『ムリしない組』を編成していた。力の限り下へ下へ、ある女戦士が象徴するその挑戦心を探索者の本分とするならば彼女がいる部隊はそれに外れているし、同じような部隊は第一期登録で第二層にくすぶっている者たちと同じと思われていたが、津差は違うと感じていた。的場と大野という二人の女性が中心になって編成したその部隊、固定メンバーがその二人しかいない。あとは二人が見つけてきた挑戦心に溢れしかし仲間に恵まれない者たちでできあがっていた。本人の口から聞いた事はないがその目的は、探索のために価値ある新参探索者が初期に仲間に恵まれないために死ぬことを防ぐためのものだと思っていた。第二層までと宣言する『ムリしない組』の二人が率先してゴンドラ導入ならびに買取額の変更に賛成していることからでもそれは推測できる。第二層までと決めてしまったら損しかしない価格変更なのだから。
「でも、うちの長塚さんは林檎握りつぶしますよ。津差さんより20cmくらい低いのに」
そりゃ長塚さんがすごいんだよ、と津差は取り合わなかった。
「葛西さんですね。勝てますか?」
津差は笑った。勝つつもりで全力でやる、としか言えないな。やっぱり彼は格上だからね。そして先ほどの葛西紀彦(かさい のりひこ)と野村悠樹(のむら ゆうき)の試合を思い出した。古流空手の使い手であり噂では緑龍を蹴り殺したとも言われる野村が下馬評では有利だった。津差もそう思っていたから足技の対処法を考えたものだ。しかし開始直後、にわかには信じられない光景を目の前に見せつけられた。一瞬の隙を逃さない武道家の面目躍如たる右蹴りを、葛西は避けず首の筋肉だけで受け止めたのだった。ばかな、と思わずにはいられなかった。あれをくらったら自分は――まあ死にはしないだろうが――気絶する。というか泣く。おそらく、ボブサップか何かでも膝をつきそうな一撃だった。それを身長180cmに満たない葛西は平然と受け(なんて精神力だ!)耐え切ったのだ(どういう筋肉してるんだ!)。そんな葛西を前にして自分の体格が何の慰めになろう。
笠置町姉妹の妹からもらった林檎をすぐに食べようと思い、ふと思いついて握りつぶそうと力をこめた。いや、少し違う。握りつぶそうという二の腕屈筋の力とちょうど釣り合いを取るように伸筋も解放し、全力を込めながら表面に痕すら残さない高度の筋肉操作をできるかと試したのだった。それができれば何か変わるような気がして。
それは簡単にできた。しかし何が変わるということでもなかった。
『準決勝第一試合を開始します。津差龍一郎選手、葛西紀彦選手』
立ち上がり、手の中の林檎を見下ろした。両手の中指と親指を上下ヘタのくぼみに当てる。一瞬後に林檎は真っ二つに裂かれていた。呆然とする二人にそれぞれ半分ずつ渡し、とりあえずやるだけやるしかないかと試合場を囲む観客の群れを眺めた。