影が手元を覆ったその瞬間の足音が、普通の身長のものよりほんの少しだけ遠かった。なんだいナミー? と黒田聡(くろだ さとし)が顔もあげずに問い掛けたのはそれが理由だった。近寄ってきた人影はうろたえたように揺らぎ、気を取り直して近づいてくる。そして低い落ち着いた声が降ってくる。練習、しないのかと思って。
「ああ、そうなんだけど――ちょっと落ち込んでます」
何が? という声は南沢浩太(みなみさわ こうた)の隣りに立つ落合香奈(おちあい かな)のものだった。彼女は女性にしては身長が高く160cm後半はあったはずだ。しかし細身であることも手伝って、隣りにいる190cmになろうとする巨漢の横では子どものように見える。ああ、香奈さんと黒田はやはりしょんぼりした顔で笑いかけた。鈴木さん、元気?
「もう目を覚まして部屋に戻ったって連絡あったけど」
夕方から大検の専門学校だから、どうせ賞品はもらえないし閉会式はサボるんだってさ、という言葉に黒田は少しほっとした。そうか、家に帰ったからって安静にするってわけじゃないんだね?
なあに? と落合は目を丸くした。そのこと気にしてたの?
「当たり前でしょう。香奈さんは俺のあだ名をご存知ない?」
「色魔」
この返答は二つ同時にもたらされた。し、し、と黒田はしばし呆然とする。二人の顔を数秒見比べてから、何も聞こえなかったかのように話を続けた。
「現代における最後の騎士、女性の味方であるべきジェントルマン黒田聡さんがですよ、あんなに高い熱出すまで18歳の女の子いじめたわけですよ。もうなんというか、父ちゃん恥ずかしくて涙が出てくらあ、って親父が生きてたら言ったはずだよ。がっかりだな。信じられないよ」
え? と南沢が怪訝な顔をした。黒田、お父さん亡くなったのか?
「いやまあまだ生きてるけどね」 とにかく、と黒田はごろりと横になった。あわてて落合がスカートを抑える。
「次も笠置町さんだろう? また娘みたいな年齢の女の子いじめるのかと思うと・・・。リタイヤを真剣に考えてしまうってわけですよ」
でも、と南沢の言葉は相変わらず静かだった。笠置町さんは実戦経験も多い。鈴木さんのようにはいかないだろう。下馬評ではお前の方が分が悪いのを知らないのか?
「ならいいんだけどね」 相変わらず黒田の顔は憂鬱で、もしかしたらこの男は冗談を言っているのではないかもしれない。そう思った男女は顔を見合わせた。黒田は目をつぶった。いろいろな物音が直接皮膚を震わせているような気がする。
南沢が長身だといっても、影の長さはそれほど変わるものではないはずだ。影の高さと足音の距離に全身全霊を込めて待ち構えていたとしてもそんなかすかな差異に違和感を感じられるはずもないだろうに、篭手をほぐしていながらどうしてそんなことに気づけたのか? あれからだ。鈴木秀美(すずき ひでみ)が入神してその精確無比な斬撃をかわし耐え打ち込むことを繰り返したあの一分あまり、自分の感覚が少しだけ鋭敏になった気がする。今まで越えられなかった壁を超えるくらいほんの少しだけ。
笠置町翠(かさぎまち みどり)は確かに強力な剣士だった。最近では訓練場で五分にしのぐのが精一杯だった。だから下馬評では自分の方が分が悪いのだ。なんといっても直前の相手が相手だっただけに消耗していると思われているからだ。でも、なんとなく自分が違うものになった気がしている。
なんだか負ける気がしない。