本日の探索も無事に終了。第二層でも危なげなくなってきた。今日もまた八万オーバーの稼ぎである。迷宮から戻ってきて何も考えずにお金を預け、戻ってきたレシートを久しぶりに見たらびっくりした。こんな金額になっていたのかと。
なので、ちょっと銀行の窓口に行ってみることにした。探索者はみんなお金がうなっているから、それを見込んでの投資相談には力を入れているだろうと思ったからだ。
予想に反してあんまりいい感想はもてなかった。窓口の男性はしきりに一つのファンドを薦めてくるだけで、なんというか、俺の希望にあわせて一緒に考えてくれるという姿勢が感じられない。殿様商売とでもいうのかな。この街では金がうなっている顧客が沢山いるから、俺程度の投資準備額では歯牙にも掛けられないのかもしれないし、みんな真剣にお金を殖やそうと思っておらず、薦められるがままに決めてしまっているのかもしれない。ともあれすっかり不愉快になった俺は席を蹴立てて帰り、それから大通りの植え込みに座って少し考えた。
すべてのことをする時間がない以上、俺たちはたくさんのことを他の人間に代行してもらっている。その際支払われるのは、しばしば愛情やら義理やら好意やらの場合があるけれど、圧倒的にお金が多い。お金で誰かの労働を購うことが一般的だから大体の相場というものが出来上がっている。かにパン一つで考えると小麦粉の栽培から店頭に並べるまで一つのパンを作るために本当にいろいろな人が働いていて、その労働に対して俺が支払う金額は84円である。この84円という金額は変わらない。俺が貧乏だった頃も今も。
でも、お金を沢山持つことで、84円という金額に対する自分の中の価値は下がっていく。月15万でアパートから遊びからまかなっていた東京時代はかにパンを買うのにも一五秒迷ったけど、今は(たとえば立ち読みをして申し訳ない気分をごまかすとかいう程度の)軽い気持ちで棚から取る。
かにパンは世間一般の22才にとっては手軽なものだから、俺と迷宮街の外の二二才との間に感覚のずれはそれほどないだろう。けど、たとえば祇園で五万使うことを軽く考え始めている自分はやっぱりよくない変化をしているのではないかと思ったのだ。もちろん沢山稼いでいる人間は、ポンとお金を使っていいに決まっている。けれども、ポンとお金を使えない人間にとってはその気持ちは理解できないものだろうし見ていていい気分はしないだろう。少なくとも俺はそうだった。
何十万、何百万という投資は真剣にするべきもののはずだ。でも俺たちみたいな若造が「なんでもいいよ」という適当さで扱っている姿は、お金の価値に敏感な銀行員だけに不愉快に感じられるのではないだろうか。それがあの人の態度になったのではないだろうかと思ったのだ。もちろん商売繁盛はいいことだ。けれどどう感じるかは別の問題だから。そして俺たち探索者には共通して未来(自分のみならず他人のものも)を大切にしていない傾向がある。
自戒しないといけないことがたくさんだ。