20:05

「こっしー! 止まれ!」
高田まり子(たかだ まりこ)は反射的に叫んでいた。迷宮街の大通り、北酒場に向かう歩道の上だった。声をかけた相手は越谷健二(こしがや けんじ)という名前の探索者である。高田と同じく第一期から探索を続けている彼は、いまでは迷宮街随一の剣士という評判を得ていた。たくましい身体を(自転車用の)ぴったりした服で身を包み、レースに使うような自転車にまたがっている。車道を走っていた彼はゆっくりと減速してからブレーキの音もさせず止まり、呼びかけた女を振り向いた。その顔に手招きをする。
迷宮街内部には東西南北に二車線通りが走っているものの、これは主に外部の業者が物流に使うためのものだ。迷宮街内部では一般人には車庫証明がおりないために夜も遅いこの時間ではほとんど車の往来はなかった。越谷は自転車を担ぎ上げると歩道と車道を分かつフェンスを乗り越えた。そしてゆっくりと高田のもとにこぎよってくる。
「こんばんは、まり姉。何か?」
高田は眉をしかめて皮膚に意識を集中した。彼が通りがかったときに確かに感じたのは迷宮内部でしか強くは感じられないはずのエーテルだったはずだ。しかし目の前に立たれた今は――いや。指をそっと上げる。人差し指で越谷のみぞおちに触れた。
「な、なんですか?」
明らかにうろたえているその声に、ごめん、ちょっと動かないでと上の空で答える。そのまま指で彼の身体をなぞっていった。そしてそれを探り当てた。
「ここに何かある」
「え? ああ、迷宮の中で見つけた石ですよ。けっこう綺麗なんでロケットに入れて持ち歩いているんです」
半分を青あざで覆われた顔は醜いとすら表現でき、そのためか無骨なイメージを抱かれることの多いこの男だったが、会話をするようになってもう半年以上経っている高田は知っていた。この男、実は綺麗なもの――花や宝石など――を好む傾向がある。たまに駅前のデパートから「まり姉に似合いそうなネックレス発見!」といったメールが飛んでくるのだ。恋人がいるという話は聞いていないので、自分の愉しみのために宝飾品店に出入りしているのだろう。変わった男だった。また、木賃宿をいつも飾る花を用意するのもこの男である。
「迷宮の中で見つけた石? ちょっと見せてくれる?」
いいですよ、と取り出したロケットは大きなサイズのものだ。開いたその中にはくすんだような色の鉱物が鎮座していた。この男が綺麗という割には味気がない。地下だともっときらめくんですよ、と越谷は付け加えた。高田はその石から目を離せないでいる。
意識を集中した。
目の前の男は顔の青あざとその戦闘能力に敬意を表されて『青面獣』というあだ名を頂戴していたが、高田にもまたあだ名があった。『魔女姫』というのがそれだ。整った顔立ちと(ほとんどの相手には)穏やかな物腰もそのあだ名の要因のひとつではあったが、何よりも魔法使いとしての優れた素質がその呼称を勝ち取らせた。そう。彼女は優れた素質をもっていた。地上であっても意志の力で周囲の空間からエーテルをある程度集められるほどに。
口の中がからからになるほどに意識を集めたとき、一度ならば猛吹雪の術すら起こせるほどのエネルギーが周囲に満ちていた。ぎょっとしたように越谷があたりを見回す。警戒の視線を高田の顔に向けると彼女は食い入るようにロケットの中の石を見つめていた。つられて越谷も視線を移した。そして驚いた。
石はきらめいていた。彼がいつも迷宮内部で見るよりもはるかに奥深い、ダイヤモンドの屈折率の奥で万華鏡が輝いているかのような幻想的な色調だった。
エーテルが霧散した。石の輝きが薄くなり、消えた。
高田はよろめき、額を越谷の肩にあずけた。大きく深呼吸をする。大丈夫、と越谷の気遣いにうなずく。
「ねえこっしー、明日ひま?」
「え、ええと、特に予定はありませんけど。デートですか?」
「え? うん、そうだね、デートだね。ちょっとこれを詩穂に見せに行こう。いや、久米さんかも」
越谷は明らかに落胆した表情を作ったが、高田は気づかなかった。すでにくすんだ色に戻った石を見つめていた。