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迷宮街では日常生活にかかわることの大半が一般企業にゆだねられているが、簡単に参入できるというわけではなかった。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどはある。しかし衣服や本、一般的ではない食材、娯楽の類は街の中に立ち入ることは許されなかった。そういったものまで迷宮街内部で自給自足してしまうことで閉鎖的になることを恐れての処置だという。それは奏効し、住民たちは気軽に四条や京都駅前、あるいは大阪神戸などへと出かけていった。奏効しているからこそある程度は原則を外れた商行為も許される。道具屋で家電や家具の注文販売が行われているのはその一例だった。当初はそれらも迷宮街の外で買うしかなかったのだが、さすがに運搬するのは億劫だったのだ。何しろ自分のための車をもてない街だから、買う場合は送ってもらうかレンタカーを利用するしかないのだ。
道具屋のアルバイトである小林桂(こばやし かつら)の仕事の一つにそういった注文品の引渡しがある。もちろん口外するつもりもないが、一人一人の注文の傾向というものが読めて面白く感じることもあった。いま彼女が扱っているのはその中でも顕著な傾向がある女性が注文したものだった。
「ログハウスでも建てるつもりですか?」
神田絵美(かんだ えみ)は第一期の探索者で、今年で30になる女性だった。ふっくらとした少々下膨れの笑顔に似合わず彼女の趣味は日曜大工である。散歩しているとしばしばトンテンギコギコとにぎやかにしているところを見かける。だからその材料の注文は慣れたものだったが。
今回の材料は比較的細いとはいえ丸太だった。
「うん。犬用だけどね。徳永さんが今度犬を飼うらしいの」
面白そうですねとつぶやくと見学に来ないかと誘われた。今日は早朝シフトだったので、あと一五分で仕事があける。用事もないし甘えることにした。
道具屋の軽トラで彼女の作業スペース(木賃宿の前にある庭の一角だった)に向かい、二人して木材を下ろした。小林が軽トラを返して戻ってきたら、すでに神田はのこぎりを引き始めていた。
小林には工作の心得はない。だから言われるままに木片を支えたりしていることしかできなかった。それでも、小柄な女性がひらひらと飛び回るように仕事をこなしていくのは見ていて気分の良いものだ。いい午後だなあ、と曇り空を見上げて吐く息はもうすっかり白い。神田絵美謹製のストーブに手をかざした。空の灯油缶の中で木片が燃えている。さすがにかじかむよ、と言いながら神田が隣りにやってきた。そして唐突に一人の男性の名前をつぶやいた。
「この間、来てたでしょ。桂に用があったの?」
小林ははっとしてその横顔を見つめた。神田は少しすまなそうな顔で、ごめん、見かけたと謝った。
「ええ、そうです」
「なんだって?」
「一緒に来て欲しいって言われました。いまは実家のお店をついでいるらしいです」
そう、と神田はうなずいた。そしていい話だと思うな、と。小林は答えなかった。
「美香のことはもう考えても仕方ないことでしょ」
あれはまだ一年経っていないころのことだ。その頃の小林にとって探索者は少々金遣いがあらいけれど気のいい友達だった。小林、神田、そして二人の男性と一人の女性。その五人で暇を見つけては遊びまわっていた。別世界のように思える風景。
今ではこの街に残っているのは小林と神田しかいない。もう二度と話せない場所に行ってしまっていた者も二人いる。
「ダメですよ」
少し強い語気に自分でもはっとする。いぶかしげな顔に気づき苦笑した。
「私は男の人を不幸にしますから。ダメですよ」
脳裏には二つの顔。