白線いっぱいまで下がった国村光(くにむら ひかる)の太ももはすでに放送席の机のふちに触れており、つまり木刀から観客席を守るべき『ネット』たちはその間に陣取ることはできなかった。それは国村を狙って放たれる木刀のうち低い弾道のものは誰にも邪魔されることなく国村の背後に座る女性を襲うということを意味していた。それを誰よりもわかっている背後の真城雪(ましろ ゆき)はマイクの音をそのままに怒鳴っている。どけ国村、と。その声は甲高く上ずり必死さを感じさせた。
その声を背中に黙殺しながら国村は視線を神足燎三(こうたり りょうぞう)からそらさず、しきりに右の太ももの筋肉を動かしていた。収縮、弛緩、収縮、弛緩。次の瞬間でも神足が切りかかってくるのではないかと常に警戒をしながら。そうこうするうちに自然と右太ももの痛みが薄れ始めた。
治療術師の助けがあったわけでも人類の限界を超えた治癒力を備えているわけでもない。しかしこと痛みに関しては人間にはかなりの耐性があることを国村は知っていた。痛みとは身体各器官が延髄そして脳に送る警告でしかないのだということを知っていた。
通常では考えられないだけの負傷を負ったときその部位は神経繊維を通じて延髄にその被害を報告する。延髄は個体すべての置かれている状況と照らし合わせて即座の対処が必要なものだけを痛痒冷熱などの感覚として脳に伝えるのだ。痛みという存在がどこかにあるわけではない。痛みを生み出すのはあくまで脳であり、脳が痛みとして認識するかどうかはあくまでもおかれている状況と比較してのその負傷の程度によって決まった。
外野でやかましい騒音を立て続けている理事の娘はずっと剣道を学んできたという。靴下とブーツで切り合いをする最近はともかく、道場で学んでいた頃の彼女の足の裏はおそらくまともな皮など残っていない無残な有様だったはずだ。そして、誰しもが目を覆うその足の裏でもしかし娘は「動き始めると忘れちゃうから」とけろりと言ってのけていたはずだった。彼女の延髄は足の裏の皮がはがれたくらいの負傷では個体として危険はないことを長年の稽古の経験から知っており、その結果足の裏の異常は脳には伝えないようになっているのだ。
今の国村の状況もそれと大差はなかった。足も肩もまったく影響なく動かすことができるから負傷があったとしても延髄が無視できる程度だったし、目の前の男の相手はわずかな痛覚でも邪魔になる。それを延髄が理解してくれさえすれば、たったいま国村を悩ませている痛みを切り離せるはずだった。これまでも地下で幾度となく経験しているから痛みの切り離しには自信はあった。しかし延髄に対して負傷による影響がないことを納得させるにはある程度の時間をかけて動かしてやる必要もあるのだった。
いつしかマイクの声は自分に対する移動勧告から危険球を多用するピッチャーに対する命乞いに変わっていた。いわく、私に木刀ぶつけてこの街で無事にいられると思っているのか。投げるとしても顔だけはやめてくれ。というよりいきなり飛び道具持ち出して恥ずかしくないのか。投げないよね、投げないでよねったら。よくもまあ、と思えるほどに舌が回る。そのくせその女性は逃げ出そうとはしないのだった。
右太ももの弛緩と緊張がいきなり軽くなった。頑固だった延髄もとうとう納得し、その部位の負傷を無視することに決めたらしい。次は右胸、と緊張と弛緩の部位を肩と背中に切り替える。
右胸の痛みを切り離すのは太ももに比べれば簡単だった。国村はヘルメットを取ると大げさなそぶりで額の汗をぬぐった。それを見て取ったか女帝の悲鳴がぴたりとやんだ。この人は、と苦笑して振り返り精悍で整った顔を見下ろしたところその表情は平静で、とても悲鳴をあげていた人間とは思えない。
「ありがとうございました、真城さん」
「少しは時間稼ぎができたみたいだね、国村くん。役に立った?」
年下とは思えない言葉遣いも違和感を感じさせないだけの貫禄とでもいうべきものがその笑顔にはある。
「ええ。勝てるとしたら真城さんのおかげだ」
そしてヘルメットをかぶりなおし、仁王立ちでずっと様子を見ていた神足を眺めた。この女性を人質に取ってから痛みを切り離すまで一分近く、彼はついに切りかかってこなかったのだ。そのことがこれまでの疑問を確信に変えていた。
「全部真城さんのおかげだ」
神足の表情は相変わらず気楽そうで何を考えているのかは読めない。
「真城さんと神足さんの試合だけは見ていたんですよ、俺は」
神足の目が一瞬だけきらめいた気がした。