その腕にすがりつきへたり込んでようやく、その細くて小さい腕が自分を全く支えられず引きずりおろしいる体勢になっていることに気づいた。国村光(くにむら ひかる)はその小柄な女性(名前はなんといったろう? 先ほどまで黒田の看病をしていた女性だ)に謝るとなんとか自分の脚で立ち上がろうと力をこめた。こめたつもりだった。
より強い力に左腕を引っ張りあげられようやく立ち上がった。『ネット』としての信頼度で一、二を争った顔がそこで笑っていた。この顔を背中にしたらとんでもない速度で投げられるだろうと試合中はできるだけ忌避していた顔が今はありがたい。素直に礼を述べると寺島薫(てらしま かおる)は笑った。
「よう勝ったなあ、あんなメチャクチャなことされて」
一人の剣士としては遠く及ばない男が心から賞賛している。それがようやく勝利の実感をもたらしてくれた。木剣を杖代わりにしてとにかく土嚢の椅子へと向かう。試合中、意志の力でなんとか切り離した痛みはもちろんのこと当時は意識しなかった程度の微弱な打ち身などがしきりに警告のフルコーラスを奏でている。土嚢に腰掛け、立てた膝の上にぐったりと突っ伏した。湿布を持ってくるか、という質問に肯定の視線を送ろうとして顔を上げたときにはもう娘は走り去っていた。この程度の動きにも時間がかかるのか、と自分の身体ながら驚く。
「自分でも信じられません。特に最後、神足さんは打ち下ろしだったのに私の剣が当たるなんて」
ああ、と寺島は頷いた。あの時はおっさんもろくすっぽ振れる状態じゃなかったからな。踏み込んだだけであばらはがら空きだったよ。
国村は絶句した。自分がもう立てないというのは戦っていた神足燎三(こうたり りょうぞう)には伝わっていたはずだった。それを引きずりあげたのは彼の殺気に対する恐怖心で、そのあと動かない身体を突き動かしたものおなじものだった。アナウンスのカウントがある種の審判力を持っていたあの状況ならば、立ち上がれた神足がそのままテンカウントを待てば勝利は彼のものになったことだろう。それなのになぜ、振り下ろすこともできない身体で攻めかかったのか。
「俺はあのおっさんじゃないから間違ってるかもしれないけれど、もう勝つ気はなかったんだと思うぞ。試合前もとにかく盛り上げることが大事と言っていたからな。俺も気づかなかったけど、アバラ折れてたんだろう? 二試合するだけの体力はなかったんじゃないかな」
それは、なんというか。さっきからそんなことばっかりだな。国村は突っ伏したまま苦笑する。前の試合の相手は自分ではなく娯楽施設のペア入場券を見ていた。そして全力を出すほど追い込まれた。今回は勝敗よりも盛り上がりか。
「なんだか、自信失うな」
どうしてだ、といういぶかしげな声に突っ伏した顔を上げた。たったそれだけの動きで右胸が引き連れて痛み、見下ろすグローブにうっすら赤い色がついているのは、もしかしたら床に顔から滑り込んだ際の摩擦で皮がむけているのかもしれない。もしそうなら普段なら当然激しく痛むだろうそれに気づかないほどに自分の身体は痛めつけられているのだ。
勝とうと思っていなかった男に。
その旨のことを話したら寺島は穏やかに微笑んだ。
「気持ちもわかるが、おっさんに関しては譲ってやってくれ。あのひとが勝利を第一に考えないのも理由のないことじゃないからな」
「どういうことですか?」
「あのおっさんはガチで殴り合ったら結局お前や黒田には負けるってことだ。体力勝負じゃどうしたって分が悪いからな」
そうだろうか? 確かに自分や黒田聡のような運動能力の塊には劣るかもしれないが、それでも最初から勝負にならないような差ではないはずだ。もともと名誉や勝敗に対して淡白な性格なのはわかるものの、実際自分はぎりぎりまで追い込まれたのだ。あきらめる場面ではなかった。たとえあばら骨が折れていたとしても。
「あのおっさん、足の指がないんだよ」
その言葉の意味が理解できず、国村は顔を上げて隣りに座る男を見た。急な動きに上半身が痛む。
「子供の頃の事故だかなんだかで足の中指だけちぎれたんだって――」
「左足だ」
呆然として呟く。寺島は眉を寄せてからどちらかまでは忘れたと答えた。しかし国村はその言葉を聞いていなかった。ほんのちょっとだけずれている中心線、ずっと違和感として自分の判断を少しずつ阻害していたそのずれの原因がわかった気がした。左右対称で完全にリラックスした筋肉、しかし片足だけあるべき部品を失っている。
そしてその欠落を、あれほどまでに身体を調整している人間はどれだけの不安に感じることだろうか。もしも自分の、たとえば左の奥歯が一本なかったとしたら? 左手の小指が一本なかったとしたら? もう、今と同じ動きをする自信なんてどうしても持てないだろう。このような極限の運動を要求される場所になど来れるはずはなかった。その不安感と――悔しさ。
「ほんとは正々堂々この街の奴らとやりあってみたいんだと思うぞ、あのおっさんも。でもできない。そうやって同じレールを選んでしまっては、自分はいつか脱落することがわかってるからな。子供の頃の怪我なんてくだらない理由で」
国村は寺島の横顔を見つめた。明らかに悲しげなその顔は初めて見る表情だった。誰もが認める剣術をまっとうな手段で鍛え上げたこの男がこの街にやってきた理由を訊いたことはない。漠然と実戦の場にさらなる強さをもとめたのだろうと思っていたが、少なくとも弱いということがどういうことかは知っているのかもしれない。
「“退き際を鮮やかにする悲しい知恵”か」
しばらく二人とも黙っていた。
「まあ、とにかく今は休め。次は黒田だぞ」
いやいや、と再び突っ伏してよわよわしく抗議した。
「最後のほうで黒田に直撃するコースが一本ありましたよ。休んでるところにあれ食らっちゃあさすがに死んだでしょう? もうやです。もう休ませてください」
虫の良すぎる願いだとはわかっていた。黒田は元気いっぱいだったぞとの予想通りの回答にがっくりと肩を落とした。