首の稼動範囲ではかわせない。至近に迫った神足燎三(こうたり りょうぞう)の表情、実はまだ一本残っていた(いったい、どこに!)木刀を掲げたその腕の位置、距離とこれまでの経験から予測される木刀の速度をすべて考え合わせての国村光(くにむら ひかる)の感想がそれだった。首というコンパクトな動きですらかわせないなら腰から上の動きでもむりに決まっている。木剣ではじきとばす? マンガじゃあるまいし! だから首をひねった。ヘルメットから垂れるツナギと同じ厚さの生地が遠心力で翻り、少しでも勢いを殺してくれるのではないかと淡い期待をこめた。
首を向けた方向は右。その回転運動はそのまま二つの肩甲骨を動かし腰椎を動かし骨盤をずらし、そこで耳の下に激痛が走ったが無視することにした。ほとんど気を失いながらも、自分が生きて意識があることを確認するが、これが夢なのではないかという不安がぬぐえずにあった。それほどに耳の下に与えられた衝撃はすさまじく、その威力ではなくそんなものを至近距離で誰かに投げつけられる精神力のある人間が存在することが信じられなかったためだ。しかし夢でも動作をためらうわけにはいかなかった。これが唯一のチャンスなのだから。全身での時計回りの旋回が生み出す運動エネルギーはぎりぎりまで伸ばした右腕を伝わり肘で増幅され手首で増幅されて、そのエネルギーを伝えるには細すぎ、やわらかすぎる木剣を流れていった。そしてその先端が神足に触れた。ガードするべき右腕は床に落ちた木刀を引っ張りあげる動きのために間に合わず、切っ先がその肋骨を叩いた。『あ!?』とアナウンスに心配そうな響きが混じっているのは、その声の主が先ほどの試合でつま先を叩き込んだ場所と寸分たがわなかったからだ。
国村は二人の試合を見たのだ。真城雪(ましろ ゆき)という、自分並みに強靭な下半身を持つ女性の完璧な蹴りが肋骨に食い込む姿を見ていたのだ。まったく痛がるそぶりを見せなかったから忘れていたが、そのあたりの自動販売機ならひしゃげる威力であることを見て取っていたから、ずっと疑っていたのだ。肋骨は無事なのだろうかと。
回旋を止めようと踏みつないだ左足が予想外の位置に着地してしまったようだった。勝利を意識してしまったからだろか、胸と太ももと、それをさらに圧して左首に激痛が走っている。平衡感覚も混乱あるいは損傷を受けたのだろうか、支えようとして伸ばした右腕が上がらず顔から床に突っ込んだ。摩擦で頬が熱い。
『ワーン!』
アナウンスのカウントをなんだか遠い世界のことにように聞いていた。今自分が何をやっているのかも白いもやの向こうのことに思えてくる。このままここに寝ていたら気持ちがいいんだろうなあ。
『スリー! おおっと! 立ちます、ダメージの蓄積が少ないのか、わき腹を押さえながら立ち上がります!』
すげえ。はじめの一歩ばりで肋骨折れてると思うのに、まだやるのかあの人。なんのためにそこまでやるんだろう。狂ってるな。俺は、もういいや。もう降参でいい。足痛い。頭痛い。身体じゅう痛い。早く治療術かけてほしい。もう一試合なんてちょっとムリだ。
『ファーイブ!』
ぞっとして上体を起こした。全身の痛みが消え去り、ただ視線は先に立ち上がった男に吸い寄せられている。
神足は木剣を片手に歩いていた。自分を中心にして円を描くその姿はカウントを待っているのではないと確信できた。殺される。背後に女子高生が座っている風景とのギャップを怪しむこともできず、その恐怖だけが身体に再び力を注ごうとしていた。カウントとかルールとか関係ない。あいつは俺を殺す気でいる。
そして神足が一歩こちらへ踏み出した。
そのあとのことを国村は思い出せない。きっとそれは無我の境地とかいうものだったのではないかと思っている。
そばにあったと思われる木剣をつかんだことも、
膝立ちから低く一歩飛んだことも、
自分が放ったという逆袈裟のことも、
大きく振りかぶった神足の上半身のどこにそれが吸い込まれたのかもずっと思い出せない。
ただ、気がつくと自分は白線ぎりぎりに立って、床の上でぐったりと倒れている男に木剣の先を向けていた。審判の橋本が、これは珍しく戸惑ったような視線をこちらに投げかけている。その気持ちはわかった。通常ならば敗北である構図であってもこの男だけは別なのだ。死ぬ直前までなにかけれんを仕掛けてきそうな、恐怖とともにそんな印象がある。
『エーイト!』
もともと勝敗を決するのはテンカウントではなく審判だったが、この場はカウントに勝敗をゆだねたのかもしれない。視線を放送席に置いたまま審判は待ちの姿勢になったようだった。
あっけなく残りの二つの英数字が読み上げられ、橋本が自分の勝利を告げた。巨大な歓声と拍手が降り注いでいた。それでも国村は視線を神足から離せなかった。タンカを抱えた男たちの頑健な身体にその姿が見えなくなって初めて膝の力が抜けた。
しゃがみこむ直前に背後から誰かに抱きとめられ、恥も外聞もなくその細い身体にすがりついた。