その女性に笑顔で呼ばれるといやな予感がする、とは恋人である常盤浩介(ときわ こうすけ)の述懐だった。特別に頼むという雰囲気のないままいろいろなものを命じるような人だから、わざわざの笑顔の代償はなんだろう、という話らしい。自分にとっては優しく強いお姉さんでしかないから何かを命じられるなど想像できないが、以前一度北酒場に入ってすぐに自分がトイレに行ったとき、ごく自然に彼女のテーブルの女性たちにピッチャーのビールをついでまわっている姿を見たことがあった。そういうことを考えれば女帝と呼ばれるのも由のないわけではないのかもしれない。ともあれ名前を呼ばれ手招きされて断る理由もなく、笠置町葵(かさぎまち あおい)は誰もいない試合場の真ん中に立つ三人のもとに歩き寄っていった。
「なんですか?」
真城雪(ましろ ゆき)に尋ねる。真城はうん、と一つうなずくと次の試合のことなんだけどねと説明を始めた。二人とも、試合をさせるには不安な状態らしい。それは格闘に対して経験の浅い葵にすらわかることだったので同意を示した。
「あの二人だからやりすぎてどっちかが即死するなんてことはないと思うけど、決着がついたあとの処置はなるべく速くしたいのよね」
その場にいた三人の一人、落合香奈(おちあい かな)があとを継いだ。
「決着がついたらなるべく速く境内に運んで、腕のいい治療術師――今日子か鯉沼くんだね――に治療してもらう。でも、それでも境内まで運ぶ時間がもしかしたら惜しくなるかもしれない」
そこで、葵ちゃんに協力を願いたいと思ってね。
「触媒・・・ですか?」
三人はうなずいた。
触媒の利用は『人類の剣』と呼ばれる達人だけが伝える技術だった。術を使うために必要なエーテルを高濃度に固形化し持ち歩き、それを壊すことで一時的に術を使える環境を作り出す。もちろん探索者たちに与えれることはなく、この街でも訓練場の教官と自分だけが作る技術を習得していたはずだ。確かにそれを使えば試合直後のこの場所でも怪我人に治療術を施すことができるだろう。だが、それは――
「君が渋る気持ちもわかる」
葵のためらいをどう受け取ったのか、腕を組んでいた星野幸樹(ほしの こうき)が口を開いた。
「魔女姫は地上でも俺たちを焼き殺せるが、それでも俺たちが遠慮なくあの子をこづけるのはあの子をよく知っているからだ。知らなければ恐れるに決まっている。この街の術師たちの存在が許されているのも地下限定の能力と思われているからであって、でなければマッチもライターもなく放火ができる人間を世界は許さないだろう。だから君たちが、地上でも術を使えるようになる抜け道を持っていることを一般人から隠しておきたいのはわかる」
それでも、今は人命を優先したい。わからないように最低限の術を使うだけだと言われて葵は唇を噛んだ。
「特別に決勝だけ回復させるっていうのはどうですか?」
「それも考えたんだけどね」 と今度は真城が答えた。
「確かにいまは二人とも瀕死に思えるけれども、これがもしも片方はぴんぴんしていたら両方ともを治療するのは不公平になるでしょう? あの二人の余力がどれだけあるか本当にはわからない以上、下手に手出しをするのは公平を欠くことになるからねえ」
それはそうだ。
「だったら、もう中止したらどうでしょう? あの二人を見ていたら誰だってムリだって納得しますよ」
「確かに俺たちが言えば二人とも引き下がるだろうけど、あとで悔やむだろうからな」
真城もうなずいた。それは葵にはわからない戦士たちの意識なのかもしれない。そんなことを考えていたら、少々いらだったような星野の視線を感じた。
「何が問題なんだ? 一般人たちは治療術がどのようなものかわからないから、いきなり全身の打ち身が消えたりしない限り疑問は感じないだろう。俺たちが試合終了と同時に使いたいのは、深刻な内出血を抑える程度のほんの初歩の治療術でいいんだ。それなら絶対に見抜かれることはないと思うぞ」
自分よりもずっと年上の男性の視線に射抜かれて身をすくめる。真城が険しい顔をしてその視線に身体を割り込ませ遮った。
「星野さん、そんな怖い顔しないで。――きっとお母さんあたりに止められてるんだよね、葵ちゃん。変なこと頼んでごめんね」
「いえ、そうじゃないんです」
そうじゃなくて、とコートのポケットに手を差し入れ、左右のポケットに一つずつある物体を取り出した。それを真城と落合に一つずつ渡すと女性たちはそろって歓声をあげた。それらは親指の先ほどの、しかし精緻な彫りがほどこされた猫の像だった。片方はあくびをする黒猫で片方は丸くなっているキジトラである。まるで今にも動き出しそうなほど、実際に生きている猫をそのまま縮小しただけの物に思えた。
「触媒を使うこと自体は問題はないんです。鯉沼さんと今日子さんだったら客席からでも術を届けられるでしょうし。でも、いま手持ちのがこれしかなくて。翠にも渡してるんですけどあの子の持ってるのは力の弱いものだけですから」
昔かわいがってた猫に似せて作ってみたらとてもよくできて、いつも持ち歩いては眺めていたものだ。だからなるべくなら壊したくない。そう言ったら意表を突かれた顔で再び星野が腕組みをした。
しばらく四人とも黙っていた。
「でもいいです。命には代えられないですから。使ってください」
明らかに無理をして思いを振り切った葵の声に星野は困ったようなうなり声を返した。落合は目を伏せた。
真城だけが微笑むと落合の手から黒猫を取り上げた。
「ありがとうね。今日子と鯉沼くんに一つずつ渡してそれぞれの判断で使わせることにする。これが必要にならないように祈ってて」
こちらの気持ちをすべてわかりながらあくまで安全を優先する笑顔にすごいな、と思う。そして二匹の猫たちの無事を祈った。今日はじめて深刻に祈った。