今日は訓練場でのトレーニングは行わず、恩田さんの部隊の戦士である西野太一(にしの たいち)さんに連れられてボルダリングというスポーツを初体験してきた。前に書いたかな? 西野さんはロッククライミングをするユーミンファンで、この街で三日に一度だけ稼いだら山に行っている。今日は俺と翠、真城さんは初心者ということで自然の岩肌は避けて人口壁に突起がたくさんついている場所に行った。京都駅の南東である。レンタカーを借りて久しぶりに運転した。俺の運転は左に詰める傾向があって助手席に座った翠は落ち着かなかったらしい。最初の五分は「あぶない!」「あぶない!」と悲鳴をあげていたけれど、すぐに「15センチ」「7センチ」というつぶやきに変わった。鬱陶しいなあ。絶対当たらない自信があるから左に詰めているんだけどな。
ボルダリングはまったく新しい経験だった。腰にハーネスというベルトをつけてそれを頑丈なロープで固定する。ロープは天井近くにあるバーを支点にパートナーの腰にあるハーネスに結び付けられる。パートナーは相手の登り具合を見ながらロープの遊びを調節するから、壁から落ちても地面に叩きつけられることはない。
俺はバランス感覚に優れているつもりだったけど、それは両足の裏が地面についている状態でのみ発揮できるものだったらしく、専用の靴(つま先をグーにするかなりぴっちりしたもの)をはいて親指の先しか壁にかからない、という状態ではなかなか思い切って身体を動かせなかった。甘く見て垂直の壁に取り付き、調子よく登っていったが足場が少なくなって滑落した。女どもから笑いが起きる。
さすが平地で転ぶ人間は違うわと古い話を持ち出してから、自信満々の表情で翠が壁に取り付いた。パートナーである俺がロープを送り出そうと待っていたら、俺の身長くらいのところで動きが止まってしまった。
「…・…あのっ。もう登れる気がしないんですけどっ。西野さんっ」こんなうろたえっぷりだったろうか。こんな翠は初めて見た。真城さんもカメラ持って来いと叫んだからには相当珍しい光景だったのだろう。カメラは持ってなかったけど。いくらなんでもそこで止まるとは思わなかった俺は驚き指示をした。右手でつかんでいる突起のすぐ下に右足を掛け、身体を引っ張りあげるだけの簡単な動きだったのに、それができないようだった。
西野さんが俺より的確な指示を出すが結局できず、翠はずるずると降りてきた。どうしたの? と訊くと、あれはムリでしょという返事だった。
初めてで垂直の壁にいきなり登れる方がどうかしている、と西野さんとスタッフの方が言ってくれて、初心者用の斜めの壁に移動することに決めた。その前に真城さんが一度チャレンジを申し出た。翠の警告にも「アマゾネスの女王を舐めるな」とかっこいい言葉を残して壁に取り付く。パートナーは西野さんが勤めた。翠が失敗したところを意識して真城さんの登り方をみていてわかった。俺は176センチで腕は長め、翠は162〜3センチで真城さんは172センチだから、腕、脚の長さにして俺と翠は10センチ程度、真城さんとも5センチほどの差がある。それが、この壁では大きな違いをもたらすのだ。俺なら簡単に脚をあげられる場所も、二人には大変なのだった。そう。同じところでアマゾネス軍団の女王も動きが止まった。でも彼女が違うところは、そこから腕(というか指)の力だけで登っていったところ。「おっかねえな、あの子は」という西野さんのつぶやきにまったく同感である。
斜めになっている初心者用の壁に移動してやり直した。さすがに戦士で食っている面々だけあって運動能力は高い。垂直の壁へのチャレンジは次回のことだけど、少なくともみんな楽しむことはできた。真城さんは早速自分用のシューズを買ったほどだ。もっとも、あの人の目当てはボルダリングそのものじゃないらしいけど。今日もキャラメルママに行くかと西野さんと意気投合したら翠に「真城さんの恋路を邪魔したら、馬を待つこともなく刺されるよ」と耳打ちされた。そうなのか? 俺は相変わらず鈍い。
京都駅東側でレンタカーを乗り捨てた。少しくらいのアルコールなら大丈夫だよと言ったのだが三人から猛反対が出たのだ。そのままタクシーに乗って手近な焼肉屋に移動する。その場で驚くべき話が出た。二人とも俺と翠が付き合っていると思っていたらしい。同じ部隊の戦士同士、年のころもほぼ一緒だからともに行動することは確かに多いけれど、まさかそういう噂話の片方に俺が選ばれるとは思わなかったから驚いた。ということで自慢のために書いておこう。どんなにひどく翠に否定されたかは書かなくてもいいだろう。女ってのはしばしば、男にもプライドがあるということを簡単に忘れるもんだから。「こんなの」はないだろう「こんなの」は。俺は年上だぞ。
用事を思い出したふりをして俺たちは迷宮街へ。二人はそのまま二軒目に向かった。二人ともいい人だからうまくいけばいいけれどね。