10:18

ボン、ボンと腹に響く音を立てながら前田がベースを調弦している。その音にあわせてコーヒーの表面はさざなみを立てていた。じっとそれを見つめていたら、浮かないねと前田が声をかけてきた。俺はけっこう覚悟ができてたけど。その言葉に佐々木明子(ささき あきこ)はあいまいにうなずいた。そうだった、と自分をたしなめる。彼も死んだんだった。いま、彼女のこころを占めていたのは別のことだった。
「常盤もなあ」
非難めいた前田の言葉にどきりとする。まさにその男のことを考えていたからだ。
「薄情な奴だな。葬式に出ないで帰っちまうってのは」
それは違うだろう、と明子は心の中で応えた。彼女が留守電にメッセージを吹き込んだのは亡くなったと聞いた二時間後の午後二時。京都でそれを受け取って、夜には東京に着いていたのだから。それを非難することは、少なくとも、葬式で初めて顔を見せた前田はしてはならないはずだった。しかしそうも口にできないわだかまりがあった。薄情ではないけど、結果的に彼の行動は薄情なのだ。何に対して?
私たちに対してだ。本通夜での彼の視線を思い出した。あそこにあったのは冷たさだろうか? 借金を背負うために学校をやめた彼についていけず、他の男に乗り換えた女が受けるべき当然の視線だったろうか? 何しろ今までの人生で似たような視線を受けたことがないからなんとも判断しようもないのだが、違うという気がした。あの底冷えは冷たいのではなく醒めているといった方が近い気がする。彼の視線を受けた瞬間に、考えておいたありとあらゆる自分の不義理の言い訳が消えてなくなった。彼にとって大事なのは友人の葬式だけであって、そのためだけに東京に来たのだとわかったから。
げんき?/うん/それはよかった。
会話はそれだけだ。それだけで常盤は視線をうつし、一緒に京都に行った先輩が誰かと話しているところに歩いていった。
答えがなかったことを同意に受け取ったか、前田が続けて彼を非難している。その言葉の裏にはかつての明子の恋人を貶めたいという気持ちがあるのだろう。卑しいはずのその本心になぜか明子はほっとした。
事故を起こした友人がいて、金さえあれば延命できる。だから大学をやめて深夜のコンビニと日雇いのアルバイトをする。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば善い。
その友人が背負った賠償金を、「目覚めたときに借金漬けだと困るだろうし、遺族の悲しみはどうにかして癒さないといけないから」という理由で肩代わりする。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば善い。
友人が死に、知らせを受けて駆けつける。その友人をいたむ気持ち、別れを哀しむ思いは一度の通夜で満たされた。帰るべき場所があり早く帰らないとそこの同僚達に迷惑をかける。だから葬式に出席せずに帰る。それは、正しいか正しくないかという観点で見れば正しい。善いことか悪いことかという観点で見れば――少なくとも、死者と彼自身に対してはそれで善いはずだ。
彼は何も間違ったことはしていないし責められるいわれはない。でも、非のないそれらの行動を積み重ねて眺めた時、背筋を走るこの冷たさはなんだろう? 後味の悪さはなんだろう? 彼が友人のために背負ったものの万分の一も協力せず、葬式に出席しないというただ一点だけで非難している目の前の男に安心と親しみを感じるのはなぜだろう?
当たり前だ。人間は弱く、だからこそ他人の甘えや弱さを許そうと思う。そうしてみんな迷惑をかけてかけられて歩いていくものではないのか。それを、弱さを許さないのではなく許すも許さないもお前など気にしないと示されたときのそのうすら寒さ――心細さ。もし私たちに対して配慮をもつならば、葬式にも出席してほしかった。その後で会話をさせてほしかった。そうすることで、意識不明になった友人を見捨てた――金も出さずに快癒を祈り心を痛めるだけならそれは見捨てたと一緒だろう――自分たちの後ろめたさも晴れたのに。二人が葬式に出ず誰とも笑いあうことなく帰っていったことで自分たちはそれを晴らす最後の機会を失った。あとは忘れるしかない。
まだ生きている人間を見捨てられるのなら、その後ろめたさを忘れるのも簡単だろう?
皮肉に笑いながら、一言そう憎まれ口を叩いてくれたらよかったのに。
常盤とは語学クラスの仲間だった。フランス語の授業の前に集まって訳を見せ合ったあの時間、とはいっても全員の目当ては常盤が作ってくる完璧な下調べのノートだった。几帳面で整った字からは想像つかない派手な赤い髪をした男は、それを惜しげもなく見せながらちょっと皮肉な目をして自分たちの怠けに対して嫌味を言うのだった。悪意ある、しかしやさしい瞳でそう言われることで自分たちは怠け心を正当化できた。しかし、フランス語の予習とは比較にならず重いこの後ろめたさに対して彼は処方箋を示さなかった。あのときの瞳で軽い嫌味を言ってくれたらどんなに楽だったろう?
なぜ、処方箋を与えずに彼は帰ったのか。自分たちを許していないから報復のつもりなのか? それだったらどんなにいいだろうかと思う。何しろ自分たちはされるだけのふるまいをしたのだから。また、既に彼の中では自分たちは配慮する対象から外れているからか? それも――悲しいが――仕方ないと思う。だが、もしも、万が一、彼がそういうことを思いつかなかったら? 大多数の気持ちを想像する心を無くしてしまっているのなら? それが迷宮街での生活によって起きた変化なら?
「――行かなくちゃ」
レストランは七時からだよ、という間の抜けた前田の声。今の恋人を少しの間だけじっと見てから、トイレにでも行くように部室を出た。そして携帯電話の電源を切った。