街の外

 09:10

さすがにサラブレッドというべきか、あっという間に呼吸が整った。そしてなんでもないように「萩に行きたいって言ってなかった?」 と。真壁啓一(まかべ けいいち)はうなずいた。そう、確かに言っていた。しかしそれよりも多い回数、(意識して)「東京に…

 09:08

コーヒーカップを持ってコタツの脇に行くと、神野由加里(じんの ゆかり)は携帯電話の画面をじっと見つめていた。さっきからずっとこれだ。誰からのメールを待っているの? 二木克巳(にき かつみ)がそう問い掛けると、うん、と生返事で携帯を渡された。画…

 09:07

朝ご飯は食べない主義だったが、売店を見てたまにはいいかなと思った。最後になにか、京都駅でしか買えない駅弁を買っていこう。やっぱり旅は駅弁だと思う。コンビニでおにぎりやパンを用意したほうが割安だとはわかっているが、そこでしか買えないものは従…

 14:05

「あら」 「おや」 「わーい」 「・・・・」 京都駅前伊勢丹デパートの六階で三人が驚きの声をあげた。真壁啓一(まかべ けいいち)はデパートを歩く人間には似つかわしくなく空身でにこにことその三人を見ている。ちょうどよかった! という笑顔になにがだ…

 09:18

大仰にならぬよう気をつけつつ、少し時間をもらえないかと上司に頼んだ。自分たちの残業申請書に判子を押していた彼はその手を休め、国村光(くにむら ひかる)を見上げる。この場でいいか? できれば別室でとの言葉に立ち上がった。 小さなミーティングルー…

 19:42

箪笥の上には二つの写真立て。両方ともに自分は映っているが、ともにいる人間が違っていた。一つには、一人の男性と男の子そして自分。一つには、一人の男性と自分。 片方はかなり前に伏せられ今ではうっすらとほこりが積もっている(それはちょっと掃除をサ…

 19:42

気をつけてね、と伝えて下川由美は受話器を置いた。昨日帰ってきたかと思った恋人は今日の昼番が終わった後また新幹線で京都に向かい、到着したとの連絡だった。今日は夜番なので昨日の夜恋人が職場に顔を出したときにちょっと話しただけである。その声がえ…

 11:08

記載されているURLは投票受け付け画面への直通だったらしく、自分の探索者番号とパスワードを打ち込んだ。表示される画面はシンプルなもので賛成と反対の二文字の下に二者択一のボタンが置いてあるだけだ。あとは自分の名前とコメントを書く欄もある。上…

 10:32

言いたいことはたくさんあった。つい先日会ったばかりじゃないか。不安ならどうして言ってくれなかったんだ。勝手に決めて押し付けられても困る。だいたいもう次がいるってのはなんだ。それら全てを押しつぶしたのは、恋人の話がまだ続いていたから。初めて…

 08:12

店頭からはアルバイトとともに検品をしている妻の声が聞こえてくる。二十日は各種雑誌の入荷日なので検品作業も書籍並べのアルバイトだけでなくレジの女性にも入ってもらっているくらいだから、自分もすぐに行かなければならないのはわかっていた。しかし視…

 22:12

パスワードが違います。 画面に映ったその文字に首をかしげた。そして思い当たる。仲間へ公開するためにパスを変えると電話で言っていたし、新しいパスはメールで送られていたはずだ。メールソフトを立ち上げ、受信フォルダの一番上のものをクリックした。太…

 23:42

もう何度目か忘れたくらい発信ボタンを押した。返ってくるのは相変わらずの呼び出し音だった。ため息をつきもう一度リロードのボタンを押す。相変わらず、昨日の日付の日記が再表示された。 携帯電話を繰り、一つの電話番号を表示させた。しばらくじっと見つ…

 24:02

さあ、燃料を追加しよう! と叫んだ木村ことは(きむら ことは)はもう本日は夜明かし決定であると態度で明言しており、補給部隊に命ぜられた二木克巳(にき かつみ)、神野由加里(じんの ゆかり)はコンビニに向けて歩いていた。 元気そうでやっててよかっ…

 23:35

「ああっ!」 突然の奇声に大沢美紀(おおさわ みき)はびくりとしてカップを動かしてしまった。残り少なかったからこぼれた紅茶は少なくて済んだが、何をそんなに驚いているのか――視界の中では従姉の大沢真琴(おおさわ まこと)がテレビをじっと見つめてい…

 23:31

帳簿とレジのお金があわない。熊谷繁美(くまがい しげみ)が必死に記憶をたどっていたものの、妻の声にそれを中断された。ちょっと来てー! ネズミが出たときのようなその声に驚いて居間のふすまを開けた。そこには両親と去年入籍した妻の桂(旧姓は小林)…

 23:25

「すっげー! 啓ちゃんがしゃべってる!」 「ほんとだよ、ってか痩せたな啓一!」 「かっこよくなってるよね!」 ロープウェイに乗っているときのように、急激な気圧の変化に鼓膜が張り詰めて唾を飲み込むまでは外の音がなんとなく別の世界の出来事になって…

 23:22

「あれさつきちゃんじゃない?」 「どれ?」 「ほら後ろのテーブルの黒いノースリーブ着てる人」 京都の大学に通うために居候している従姉の指すところをじっと見る。後姿しかわからないが、あの変な位置にあるつむじは間違いなく姉だった。しかし。 「どう…

 23:02

おーい、と名前を呼ばれて縁川かんな(よりかわ かんな)は壁の時計を見上げた。おっと、放送が始まったみたいだわとココアのマグカップを持って部屋を出る。障子を開けたら自分と姉以外の一家九人がコタツにおさまっていた。揃いも揃ってミーハーなんだから…

 17:28

「おや、克巳も早いね」 奥野道香(おくの みちか)の言葉にテレビの前に座っている同級生が振り返って笑った。いま来たところだよ、という彼の名は二木克巳(にき かつみ)といい、大学ではゼミそしてフットサルのサークルでも同期にあたった。この部屋の主…

 14:42

苦い顔で受話器を置いた恋人に熱いお茶を淹れなおしてやる。ありがとう、という憮然とした顔に共通の上司である中本勝(なかもと まさる)がどうした? と声をかけた。お勤めのほうか? 水上孝樹(みなかみ たかき)はうなずいた。お勤めとは、彼の家柄に下…

 22:05

わざわざありがとう、と礼を言って電話を切る。そして大沢真琴(おおさわ まこと)はため息をついた。迷宮街にいるはずの知人の消息、もしやと思って尋ねてみたがやはり知らないという。仕方のない話だった。小さいとはいえ街なのだから。 彼女が迷宮街に向…

 11:47

どんなにきっちりとルールが決められていても、いや、決められているならなおさら細かなところで目こぼしの余裕は必須だと巴麻美(ともえ あさみ)は考えている。それは事務員でも同じこと。違うのは、事務員相手のお目こぼしはささやかなもので済むというこ…

 22:17

頭の中でいろいろな理由が渦巻く。立ちくらみに似た感覚に意味もなく自分の頬に触った。鎖骨、肩、そこに実体があることを確かめていく。 問題は理由ではなく意図だった。自分しか読者がいないこの日記において恋人は誰から何を隠そうとしたのか。 昨夜、日…

 17:45

約束の場所には一五分前に着いた。もう、この距離を自転車で走らなくなって四年経つ。しっかりと時間を読み違えてしまった。寒いなあ、いやだなあ、退屈だなあと最後のカーブを曲がって開けた駅前には見知った人影が一つ。よかった。これで退屈だけは紛らわ…

 11:24

どうして子どもたちになつかれるのだろう? とは笠置町葵(かさぎまち あおい)の積年の疑問だった。子どもの相手がうまいわけでもなく笑顔がいいわけでもなく、それでも近所や親類の子どもたちにはよくなつかれた。今日も正月とて集まってきていた子どもた…

 10時29分

その言葉を待っていたのよ、と巴麻美(ともえ あさみ)はお茶を飲み込んだ。そして小さく息を吸い込み、愚痴の最初を切り出した。そりゃあたしだって、実家に帰ってのんびりおせち食べたかったわよ。東京に二人でいるよりはご飯出てくるところでお酒飲んでる…

まだ話中だよ。ネットに接続しようとして果たせずに真壁啓一(まかべ けいいち)は舌打ちをした。母親は本家の正月の集まりの片付けに駆り出されている。この家にいるのは父と自分だけ。親父どのは、かれこれ40分間もどこに電話しているのだろう? これでは…

淡々と定期巡回をする。以前はサッカーチームのファンサイトが中心だったが、ネット上にはおもしろいエッセーを書く人がいることを最近知ってからは、毎晩一回はお気に入りをクリックするようにしている。お気に入りの一つ、おもしろくはないがもうちょっと…

 22:34

ふううううううと息を吐く声が聞こえる。なんとなしに妻のその声を耳に留めながら、笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)は目の前の男のコップに焼酎を注いだ。彼は奥島幸一(おくしま こういち)という名で、笠置町夫婦と同じく政府から月10万円の助成金とと…

 10:18

ボン、ボンと腹に響く音を立てながら前田がベースを調弦している。その音にあわせてコーヒーの表面はさざなみを立てていた。じっとそれを見つめていたら、浮かないねと前田が声をかけてきた。俺はけっこう覚悟ができてたけど。その言葉に佐々木明子(ささき …