目の前の男の日記は読んだことがある。自分はまったく登場しないから(訓練場でも早朝派の彼と夜型の自分とでは出会ったことがなかった)検閲のつもりはなかったが、読んでいて一つ印象に残ったことがあった。その観察力の確かさだ。この街で生死の際に身をおきながら、そういった付帯状況にとらわれずものごとを正確に洞察して判断している。それは一人の戦士としてよりたとえば教官として非常にすぐれた資質に思えた。だからこの街を去ると聞いて残念に思う。
ともあれ今は敵手として目の前にいる。その反射神経とスピードでは自分を圧するため、ゆめゆめ油断はできなかった。
この手の人間は、と思う。この手の人間は、そのすぐれた観察力と洞察力考察力のために並みの人間よりも緻密で多岐にわたるパターンを想定してそれに従って行動する傾向があった。自分との攻防でもそれは活かされるだろう。だからこそ、初見でのみ使える手があった。できれば対津差戦まで温存したかったが、津差は真壁ほど思考が柔軟ではない。一度見せるくらいなら通じるかもしれない。セコンドについている西谷陽子(にしたに ようこ)にタオルを渡してお互いの拳を軽くぶつけた。
開始の号令とともに小手調べで数度の斬撃を繰り出す。軽々とついてくるその反射速度に感心しながら(なんといっても、自分の数分の一しか戦闘経験がない男なのだ!)少しずつ速度を上げていった。それにもしっかりとついてくる。
このまま、このまま、表情にすこしずつ真剣さをにじませる。このまま速度を上げていき、自分はついていけなくても真壁は対応できるところまで速度域を移す。そこでこの戦士は行動を起こすだろう。
主導権が真壁に移った。立て続けの速い切り込みに必死の形相で対応しながら、少しだけ木剣を持っている腕を宙に遊ばせた。さて、この小さな隙に踏み込んでくるか?
来た! 第四層のどの化け物よりも、もしかしたらエディよりも速い踏み込みでその身体が自分の両手足の懐に飛び込んでくる。このまま一発タックルをいれて体勢を崩せば真壁の勝利だ。少なくとも彼はそう思ったはずだ。木剣を手首だけで振った。狙いは真壁の木剣の切っ先。そのまま手放して、一瞬だけ真壁の木剣を封じる。
左手を真壁の胸に。右足をその両足のさらに後ろに。右手を真壁の額に。そして両手を強く押す。思わぬ反発に重心が後ろにさがった真壁の身体、後じさろうとした脚が小笠原の右足につまずいた。
真壁は押されて大きくしりもちをついた。そのまま額に当てた手に力を入れて地面に組み伏せた。胸に当てていた手を抜き手の形にしてその喉仏にぴったりとつける。二秒後の勝負ありの言葉に割れるような歓声が沸きあがった。
迷宮の化け物相手には組み打ちなど通用しない。だから訓練場でも使ったことがない。使わなくてよかった、とまだ呆然としている戦士の顔を見て思う。次にやりあったらもう通用しないだろう。負けるとは思わないが気力体力を消耗するはずだった。
そして視線を人垣に向けた。驚いた顔の津差龍一郎はしかし少しずつ事態を飲み込んでいるように見える。組み合わせに恵まれなかったなあ、と息をついて真壁の隣りにごろりと横になった。