心の中で何度冷や汗をぬぐったことだろう。笠置町翠(かさぎまち みどり)と手合わせしていわゆるサラブレッドたちの実力はわかっているつもりでいたが、それでもここまで切り込みを無効にされるとそら恐ろしい気持ちになる。
ほら、まただ。この街のどの戦士であっても必中間違いなしのその渾身の打撃を軽く(とはいえ恐ろしい腕力だ!)弾きまるで精密機械のようなもう一刀が襲い掛かってくる。なんとかそれに対応できるのは、その動作が理想的だからだ。自分が想像し得る最高の動きを覚悟していればそれに大差ない反応が返ってくる。だからこそ対応できた。これでもしも悪手を混ぜられたらもうお手上げだったろう。しかしそれは目の前の少女もわかっているはずだ。どうしてそれをしない? ぎりぎりの精神戦の中、ちらりと敵手である鈴木秀美(すずき ひでみ)の瞳を盗み見る。もしかしたら自分の切り込みもこの娘の対応できる限界であり、悪手を混ぜる余裕がないのかもしれない。それならば消耗戦もできるが。
盗み見た瞳からは何も窺うことはできなかった。
このまま持久戦で体力勝負に出るか? しかし今の切り合いですら自分の技術では限界に近い。このまま続けたら精神の消耗からミスをするのは自分のような気がする。視界に葛西紀彦(かさい のりひこ)の姿が入った。実直なあの戦士だったら躊躇なく乾坤一擲の勝負に出ることだろう。その汗臭さは自分のキャラではなかったが、このままジリ貧になるよりは学ぶべきかもしれない。やるか。反射的に繰り出された木刀を弾き飛ばした。
大きく振り込み右手めがけてに木剣をふりおろす。しかしこれは誘いであり、予想通り弾かれた勢いを活かして身体を回転させた。コマのような回転力、さらに踏み込んでいたこともありもう片手の木刀がツナギで滑るのが感じられる。切られたか?
打撃は浅く審判のコールはない。そして懐にもぐりこんだ。懐は小太刀の間合いである。そこにもぐる恐怖に震えながら、心の中で雄たけびを上げて自分を奮い起こした。あとは力任せに突き飛ばし、馬乗りになればそれで終わる。マウントポジションを取れば腕力の問題だった。そして鼻と鼻がぶつかる距離でもう一度瞳を覗き込んだ。
軽く肩を押しただけで離れた。離れ際の引き面を首をひねってかわす。肩を叩いたこれも浅いと判断された。
今の目――距離をおきながら、両刀を脇にたらしたままの娘を注意深く見つめながら思い起こした。今の目、意識があったか?
じりじりと距離をおいたまま、秀美を中心に弧を描く。常に自分を中心線に見据えたまま娘は身体の向きをあわせていく。そのまま外の光が彼女のヘルメットの中身を照らすところまで向きを変えさせた。やっぱりだ。その顔は静謐でとても戦っているように見えない。ただ殺気に反応して身体に染み込んだ技術で対応している、目の前の娘はまさに機械とおなじだった。問題は、我から選んで入神したのかこの戦いの間に気を失ったのか――考えるまでもない。悪手を混ぜれば自分に勝てることがわかっているのに使わなかったことが、その状態の不利を示している。つまり目の前の娘は試合中に気を失ったのだ。しかし自分が放射する殺気が倒れることを許さず引きずられるように木刀を振りつづけた。それはこの娘の小さな身体にとってどれだけの負担だったことか想像もできない。どうして自分は気づいてやれなかったのだろう。何のための年長者か、と愚かさを呪った。木剣を投げ捨てて走り寄った。
警戒するべき殺気が消えたとわかったのだろうか、両刀がその手からこぼれ落ち、膝から力が抜けた。倒れる。
寸前に抱きとめ、篭手の指先を噛んで脱ぐ。そして額に手を当てた。すごい熱だった。
「タンカ!」
落ち着かないようにざわめく会場を見回す。「どけ!」と女の声に人垣が裂けた。抱き上げタンカに横たえた。
運ばれる娘の口元には満足げな微笑。きっと大事には至らないだろう。ほっと安堵する。
『黒田聡の痴漢行為により、勝者鈴木秀美
絶妙なタイミングのアナウンスに吹き出した。