かすかにつりあがった目尻、小さな鼻と口は女性を誉めるベクトルで分類するならば「かわいい」よりも「美しい」と言わせる形をしている。かたちを少し整えるだけの眉毛はくっきりと濃くつりあがり、それが全体にきつい印象を呼び起こしている。ともすれば生まれそうな険を抑えているのは明るめに脱色した髪の毛であり、前髪が冬の空気にもてあそばれ揺れていた。両目は閉じられている。誰でも目を閉じたら不安になるだろうし、それはふつうまつ毛と目尻の揺れに現れるものだったが、かすかにうつむいて目を閉じるこの娘はまるで眠っているかのように不安を表に出さない。向かいに座る男を心から信頼しているのか、あるいは何かに集中しているのか。対する男はこれもまた静かな視線をじっとその顔に注いでいた。それは女を気づかうようでもありその表情をうかがうようでもある。膝の触れる距離で向かい合いながらも甘い雰囲気のない男女だった。
女の名前は笠置町翠(かさぎまち みどり)、男の名前は真壁啓一(まかべ けいいち)。総勢300人以上になる探索者のあいだでも有名人に挙げられる二人だった。だから通り過ぎる人々が視線を投げていくのだろうが、それよりも二人の体勢に問題があるのかもしれない。訓練場の壁に作られた外への通用口、その一つのコンクリートの上にあぐらをかいて向かい合った二人は、それぞれ手を前に出していた。手のひらを下に向けた二人の手は空中で重ねられている。真壁の左手が下、空間をあけて翠の右手。
真壁の頭と肩がほんの少しだけ揺れた。
翠が手を胸元にひいていた。
見ているものがあれば、真壁が下に置いている手を引き抜き持ち上げ、上から翠の右手を叩こうとしたのがわかったかもしれない。翠が――目を閉じているにも関わらず――それを察知し手をひくことで叩こうとする手を避けたのだとわかったかもしれない。しかしそれを看破するには相当な注意力と反射神経が必要だった。二人の動きはそれほどに速い。
「もう一度」
翠の静かな声。真壁はうなずいて左手を差し出した。その上には翠がまた右手を置く。今度は間髪いれずに叩こうとした真壁の手はまたかわされた。
「いいんじゃない? 次は右でやってみる?」
感嘆と喜びを隠せない真壁の言葉に娘は目を開いて微笑んだ。うなずこうとする動きが止まったのは遠巻きにして二人を眺めている一団が視界に入ったためだった。つられて真壁の視線も動き、それを気づいたかこれまで遠慮していたらしい一団が駆け寄ってきた。ぎょっとしたように二人に身を引かせたものは、この街では珍しいその一団の装束。おそろいの紺のダッフルコートは前を止められておらず、その下からは冬服のセーラー服が覗いていた。一団はあぐらをかいたまま硬直する二人の前に展開すると、真ん中の、少し背の高い女の子が口を開いた。頬が真っ赤に紅潮しているのは寒さだけのことではないだろう。
「あ、あの、テレビ見ました!」
二人のうちどちらに声をかけたのかは一目瞭然、男は面白そうに向かいに座る女を眺め、セーラー服の一団(軍団?)の視線を浴びて顔が強張った翠はただ、あ、ええと、う、と上体を隣りの男の背中に隠そうとしている。
NHKのテレビ見ました! 真城さんていう方と切り合っているの見ました! 私たちとそんなに年が変わらないのにものすごく強いので驚きました! お名前はなんておっしゃるんですか? おいくつなんですか? あとで稽古つけていただけませんか? まだ勝ち残っているんですか? 矢継ぎ早に繰り出される質問に翠は硬直した笑顔を向けたまま、じりじりと這いずるように真壁の背後につこうとする。その動きに苦笑しながら真壁は一団のもといた場所を眺めた。そこには黒い合皮でできた荷物が並べられている。立てかけてある棒状の袋を見るまでもなく、彼女たちはどこかの学校の――おそらく女子高の――剣道部なのだと想像できた。そういえば、時計はもう三時を過ぎていた。この祭りをどこかから聞きつけ、見稽古にやってきたというところだろうか。
迷宮街を紹介したNHKの放送があってからこちら、真城雪(ましろ ゆき)という美女のファンはたまにこの街を訪れてはいたがそれは真城がモデルも顔負けの美貌でありぴんと伸びた背骨のりりしい女だからだ。翠もまさか自分にファンがついており、それが今日大挙して現れるとは夢にも思わなかっただろう。
「困るなあ君たち。サインは事務所を通してもらわないと」
真壁がとりなすように言い、その言葉で呪縛が解けたか翠が全身をその背後に隠す。両肩に小さな手の感触、おそらく肩越しに一群を覗き見しているのだろう。背中の女に比べて3才は年若いはずの娘たちの間から「わあ、かわいい」という歓声が漏れた。背中がうろたえる波動を伝えている。
「とにかく、こいつはこれから試合が――準々決勝二試合目だけど――あるから、それが終わるまではちょっと静かにしてやってくれないかな。大会の後だったらみんな道具を持っているみたいだし、空いたところで稽古をつけてあげるから」
わあ! という笑顔。不満をこめて背中を小さく何度もこづく拳。笠置町翠って名前だからぜひ応援してやって! と言うと一群は礼儀正しく頭を下げ、何が楽しいのか笑いあいながら立ち去っていった。荷物を担いで訓練場の入り口に歩き去る姿を見送ってから翠に振り返る。さきほどまでは静謐のなかにもぴんと気の通っていた顔は、いまはぶざまにうろたえていた。
「ちょっと動揺したね。また左手で何度かやろう」
う、うん、と真壁の左手の上に右手を差し出し、目をつぶり、数秒後には痛い! という声が響いた。白い手の甲に真っ赤に浮き出たあとをさすりながら泣きそうな顔は痛みだけのことだったろうか。翠ってさ――真壁が呟いた。
「ひょっとして誉められるの苦手?」
うん、ちょっとね。情けなさそうに肩を落とした。やっばいなあ、あの子たち応援に来るのかなあ。
大声援でしょうそりゃ。平然としたその言葉に頭をかきむしり、脱力したように真壁の肩に額を乗せた。