殺してやる。そこまで考えて狩野謙(かのう けん)は愕然とした。自分のその危険な感情はどう考えてもこの空間にふさわしいものではなかったから。不自然なものだったから。どうしてそんな気分になった? 胸の奥にわだかまる土色の感情はそのままに自分の心を眺めかえした。スーツ姿でやってきたから? それもある。だがそれだけではない。試合が始まるこの場にあってなお余裕綽々としているその態度にプライドを傷つけられたのだ。
どうして奴はあんな行動をとれるんだろう? 部隊内に学生が一人いるために日曜日には必ず潜っている自分は、土曜日に潜る国村光(くにむら ひかる)とは訓練場で出会ったことはなかった。だからその実力のほどをしらない。知っているのは評判だけだ。第一期募集の二日目に登録した最古参の戦士の一人で、平日は名古屋の会社に勤めている。その戦闘能力に対する評価は他の戦士たちとは趣を異にしていた。他の戦士たちはあくまでも強弱優劣のベクトルで表現される。しかしこの男だけは違う。皆が一様に口にする表現は「違う」というもの。それが何のことなのかはわからない。
違う。不気味な響きだ。しかし彼の部隊がまだ第三層にいることも確かだった。常識を外れて強力な戦士であるならば、たとえ土曜日だけであろうとも仲間にしたいという部隊はあるはずだ。その誘いがかかっていない(応じていないだけかもしれないが、その可能性は低いと思う。この街には深く降りたい人間と安定して稼ぎたい人間がいるが、稼ぎ口があるのにわざわざやってくる彼は前者と考えるのが自然だったし現に第三層まで降りている)ところを見る限り、最精鋭の戦士たちと実力は同じかそれ以下ということになる。であれば、自分にこれほどの余裕を示せるはずがないのだ。
おかしいな。開始の声を受けて一歩踏み出した。これは擬態か? まず考えたのがそれだった。自分の神経を逆なでし、不用意な一撃を引き出すための。一歩を進む。国村は相変わらずとろんとした目をちらちらと観客席にやっていた。先ほど手を振った方向。誰か気になる人間が来ているのだろうか? もう来歴の古いこの男のこと、この街にいいところを見せたい相手がいたところで不思議はない。
一歩進む。いわゆる一足一刀の間合いに到達した。一歩の踏み込みで攻撃が相手に届く間合いだ。その瞬間、国村の両目がこちらに向けられた。そして固形かと思われるほどの圧力が自分の足を、手を、首を、何より心を揺さぶる。さすがは第一期の最初からいた戦士だった。週に一度潜るだけとはいえ、それでも自分たちの半分近くのキャリアは積んでいるのだ。
耳鳴りすら感じるプレッシャーの中、しかし狩野は疑問に思う。同じ戦士ながら惚れ惚れするような気迫のなかにそれが揺らぐ一瞬がある。誘いか? 目をこらして眼前の男を見つめた。その気配を感じたか揺らぎは消えてなくなった。吹き寄せる重圧。誘いではなかったらしい、とまたこちらも待ちの姿勢になるとしかし、再び重圧が揺らぎ始めるのだった。しかもそれが、今度は少し長い。
目の下のクマ。生あくび。寝癖。無精ひげ。こちらを挑発するかのような態度。それでいて間合いに達すると剥いた牙。
合点がいった気がした。この男はいま疲れきっている。このトーナメントが開催されると決まったのは昨夜の北酒場でのことだ。時間にして7時半ごろ。それから彼に電話で知らせて駆けつけたとしたら、今日のぶんの仕事はどこで片付けたのだろう? クマ。生あくび。寝癖。無精ひげ。昨日の夜だ。どれくらいの仕事量があったのか知らないが、ぱっと見てわかるほどにこの男の昨日の睡眠時間は少ない。だから、できるだけ手数を少なく勝とうとしている。
心底は読めた。ではどうする? この試合を勝つだけならば長期戦だが、必死になって考えた。体力に余裕がないのは自分も同じことなのだ。強運の戦士と呼ばれる男に運を吸い取られたか、これまでの自分の相手は全て第三層に到達している戦士たちであり相当に消耗している。ここでさらにこの男と長時間の斬りあいをしても次の強運の戦士には勝てるだろう。しかしその次はつらくなる。相手が短期決戦を狙って罠を仕掛けるならばそれでいい。それを噛み破って勝ってやる。目に力を集めて睨み据えた。引きずられるように国村の緊張も高まった。そのこめかみを流れる汗さえもはっきりと見えた。
二撃だ。一撃は浅く手を狙う。当然それはかわされるだろうが、予期して初太刀を浅くしておけばその後の切りこみははじける。その後鎖骨を折ってやることにしよう。罠とはいえそれまでの態度は相当腹に据えかねていた。
国村の気が揺らいだ。
「隙」
怒号。そして青眼に置いたまま踏み込んだ。
「あり!」
この言葉、狩野は軽い催眠術の一つだと思っている。相手に意識を集中していてなおかつ“本当に”隙があったとき、それを見透かされたように指摘されると人間は納得してしまうものだと。自分には隙があるのだと。だからすぐには動けないのだと。神足燎三(こうたり りょうぞう)という最古参の戦士の一人がよくこの言葉を使い、どうしてか動けなくなる自分を省みて達した結論がそれだった。それは正しかったらしく、国村の目に浮かぶのは驚き、焦りそして、諦め。心の中で快哉を叫んだ。当然これは自分の目に表れて、それがまた国村を打ちのめすだろう。手――呆れたことに篭手すらつけていない――を狙った剣先が空を切った。これは予想通り。あくまで視線は国村の目に置いたまま、視界の端で木剣を握った拳の行方を追っていた。だからその拳があっけなく木剣を放した様子も目の当たりにした。
衝撃的な光景だった。武器を放すことは地下では死につながるのだから驚くのも当たり前のことだ。だから視界の端のその情景を信じられず、首を捻じ曲げてまじまじとそちらを見やってしまった。まずい、と思った瞬間には顔の下半分、頬骨と鼻を覆うように大きな手で掴まれていた。ぎり、と締められてあごが開く。ヨガの脱力ではあごと舌の力を抜くことを重視するように、無理やりにせよかみ締める力を阻害されて全身から力が抜けた。それにしても、これは、人間の力か? 涙がにじんだ。
す、と左眼の下に当てられたのはボールペンの先端だった。眼球を脅かされる恐怖よりも先にどうして左眼なんだよと愕然とした。自分は右で剣を振るっている。そして、利き目と利き腕は一致することが普通だった。だから、目を潰すならば利き目である右を潰そうとするはずじゃないか。しかし左利きで生まれて両親に矯正された自分は、ありとあらゆるものを右でこなしながらも利き目だけは左だったのだ。それを知らず、どちらでもよいがたまたま左眼にボールペンの先を当てたのか? それとも、先ほどからの自分の動作から利き目を左と判断したのか?
「悪いけどさあ」 静かな声。その顔にはぐったりと疲労の色がにじんでいた。
「あんた目の前にして隙なんかつくらない、いやつくれないよ。――ああしんどかった」
審判が終了を告げる。