思い切り床に叩きつけられた男はしかしその音がもたらすイメージに反してすぐに跳ね起き、巨人を抱き起こすとその鼻の下に耳を当てた。ほっと息をついたところを見る限り柔道などで落ちたような状態らしい。審判が勝者を告げる声に軽く拳を振り上げた。どよめきの中、がっしりした男二人がタンカで巨人を運ぼうとし(サイズがおおきすぎたため)あきらめ、二人で足を一本ずつ持って引きずっていった。
まだ観客席はどよめいている。橋本駿(はしもと しゅん)も身体の震えを止めることができなかった。なにが起きたのかわからない、しかし小兵の勝利は非常な感動をもたらした。
前の集団は近所の女子高の剣道部のようだった。彼女たちにも今なにが起きたのかわからなかったらしくお互いの顔を見合わせていた。そして一人が隣りに座っている男性に結局どういうことだったのか、と尋ねた。その男性は――ベスト16に残っていた一人だったと思う――シンプルに「葛西が津差さんよりも格段に強かったってことだ」と答えた。
でも、なにが起きたんですか? あの大きい人は気絶したから負けたんですか?
「いや、違う。投げ飛ばす一瞬前に葛西の剣がきちんと津差の首に当てられてる。しかもその上葛西は受身を取って残心も完璧だった。どこからどう見ても葛西の勝ちだ」
目の前の女子高生たちは、わざわざこんなところまで見稽古に来るくらいだから相当練習を積んでいるのだろう。でも見えなかったのだ。自分にもわからなかった。
「ええと、すみません――」 質問をした女子高生の一人が続ける。おじさんはそれがわかったんですか? 剣道の経験はどれくらいあるんですか?
「俺?」 怪訝とした顔。俺はここに来たのが一年半くらい前で、剣を振るようになったのはそれからだよ。この街でそれだけ生き残っている戦士ならみんな気づけるさ。ところで俺はまだ26だけどおじさんなのか?
あ、ごめんなさいと女子高生の頬が赤くなる。他のメンバーはみな憧れを篭めてその男を見やっていた。たぶん自分と同じ視線なのだろう。
今年の正月、目の前であの巨人を見た。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)というその男は巨躯にかかわらず動きが洗練されており、剣道の県大会でベスト4になった程度でうぬぼれていた自尊心をこなごなに打ち砕いた。常識はずれのサイズのお陰があったにせよ、人間というのはこれほどまでに圧倒的な存在感を持つことができるのか。それを知ってからは嫌だった練習にも精が出るようになった。まだまだ成長期であるから身体が大きくなるようによく食べ運動するようになった。そして、父に教えられて今日またやって来たのだ。目標であるあの巨人をもう一度見るために。
そしてその敗北を見た。一般と比べたら大柄とはいえ、まだ常識の範囲内にいる男に完璧にやられたのだという。そしてその経緯を見切っている男はたった一年と半の生活で素人がその次元まで到達したのだという。
なんで18歳からなんだ。
歯噛みしたい気持ちになる。まだ高校生にもなっていない自分には、あまりに遠い。
でも、高校を卒業したらここに来てやる。そして自分もあの巨人を倒すんだ。心に誓った。