折った。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は確信した。
自分の鼻も折れているかもしれないが、と止まる気配も見せない鼻血を思い切り噴き出しながら懸命に笑いを押し殺す。逆流してきた血が口の中にたまり、それを床に吐き出した。その大量の出血に観客がどよめき、最前列を――その服装の迫力で――陣取った女子高生たちが悲鳴をあげた。
左半身をこちらに向け半身になりながら自分を中心に弧を描いてすり足に歩く葛西紀彦(かさい のりひこ)の顔をじっと見つめた。その視線がちらりと床の上に吐き出された血に向かう。そして自分の顔を見る。半身にしてこちらに差し出している左肩にべっとりと自分の血がシミを作っていた。
隙を捕らえたはずの攻撃はやすやすと受け止められ鼻を潰された。顔の下半分を真っ赤に染め、口の中には血がたまり定期的に吐き出さねばならない津差はまさしく絶体絶命に見えることだろう。先ほどから葛西の表情が変わり、口元に浮かんだのはまさしく肉食獣めいた微笑。それは半ば以上勝利を確信し、最後のツメを探っている表情だった。自分の得物の不調には気づいていない表情。
先ほどの一撃、自分にとって最高の踏み込みですくいあげられた刀身は簡単に防がれた。そのうえ捕まえる手の動きの裏をかかれ体当たりを顔面に食らった。それでもなお津差の手の中に残る感触は、自分の打撃が相手の木剣を折った、少なくとも亀裂を入れたという事実を伝えてきている。そして、葛西が木剣を調べるそぶりを見せないところから彼がそのことに気づいていないのは明白だった。
口の中に血がたまる。葛西の目は冷静にそれを測っている。血を飲み下すなどできるものではないからたまれば吐き出さないとならず、その一瞬は明らかに隙が生まれる。そのタイミングを見計らっているのだ。それはわかっているし防ぎようのないことだった。なぜならこちらがどう警戒しても否応なく血はたまり、いつかは吐き出さないといけないものなのだから。まとまった量の血がべちゃりと床の上に広がる。その凄惨な音にいつしか会場の物音は途絶えていた。いずれ吐き出さなければならないものだ。その瞬間に隙ができるものだ。ならそれで裏をかいてやる。
口の中にまた血がたまり始める。もう三度吐いており、葛西は完璧に自分の口腔の容量を掴んだと思っているはずだ。だから、次に吐き出そうとしたら攻撃をかけてくるはずと確信があった。血が口の半ばまでたまる。これまでは吐き出していた血液量、それはまだまだ津差にとっては耐えられる量だった。吐き出すそぶりに見えるよう、首を少しかしげた。
葛西が地を蹴った。やはりタイミングをうかがっていたこの男は予想外の速度でもう間合いのすぐ外まで迫っていた。そして津差は血を吐き出さずに耐えた。いぶかしげな表情に勝利を半ば以上確信しつつ津差は木剣を横殴りにないだ。これまでと同じように葛西が柄と二の腕で受け止めようとする。あっけなくその木剣は刀身の半ばで折れた。
やった!
いない!?
二つの思考は時をほとんど同じくしたもの。木剣の折れた柄側だけがゆっくりと落下していく目の前の世界には対戦相手の姿はどこにもいない。耳がとらえた足音は自分の斜め左後ろをまわりこんでいた。左膝を裏から軽く蹴られた。身体の操作を全くできないままに上体ががっくりと下がる。葛西の手が自分の肩にかけられ、ふくらはぎをブーツが踏む感触。登られる。しかし身体は動かせない。
右腕の上腕部に何か棒状のものが当てられた。
ようやく左腕が動き始めた。
ヘルメットを引き起こされ、喉が露出した。
左腕が自分の背後にいる人物のツナギを掴んだ。
喉に何かが当てられた。
左腕の筋肉が膨れ上がった。
背中を押して飛びのけようとする感触があった。
左腕は掴んだツナギを逃がさない。
自分のツナギがなぜか首を圧迫した。
左腕は掴んだものを地面に叩きつける。
首に対する圧力が強くなった。


視界が真っ暗になった。