剣術トーナメントで訓練場の建物を全て使われてしまう今日は、教官たちにとっては降ってわいたような休暇の日となるはずだった。しかし自分には石の選別という仕事が山積みであり、罠解除師の教官である洗馬太郎(せば たろう)と治療術師の教官である久米錬心(くめ れんしん)はこれ幸いとゴンドラを作っている工場がある大阪に飛んでいってしまった。同僚たちが相変わらず働いていることに恐縮したのか戦士の教官である橋本辰(はしもと たつ)は剣術試合の審判を引き受けたらしい。みんなのんびりすればいいのに、と鹿島智子(かしま ともこ)は苦笑するが、自分以外は出払っているからこそその異音が非常事態だということに気づけたのだった。前方右手側にある洗馬の事務室から鋭い呼気と何かが空気を切り裂く音が聞こえてくる。コンビニのビニール袋を床に置き、念のためポケットから白い碁石を取り出して握りこむと洗馬の教官室のドアノブを掴んだ。内部の音は変わらない。
一拍置いて乱暴に開いた。「きゃ!」という若い女性の声が起き、同時に熱い空気が流れ出してきた。それはまるで夏の午後三時のアスファルト上を思わせる気温。
「何やってるの? あなたたち」
持ち主の控えめな性格に似てほとんど物が置かれていない室内は、さらに事務机を脇に寄せられていることで中央にがらんと空間が作られていた。中央では厚手のジャージを身につけた男が自分の登場にも動じずにゆったりと突きを蹴りをくりだしている。それを、壁に寄せた椅子の上から娘が眺めていた。男の名前は知らなかったがこちらはわかる。確か――的場由貴(まとば ゆき)――といったはずだ。非常に筋のいい治療術師ということで以前教官の久米から紹介を受けたことがある。その的場は暑さで少々ぐったりしたような表情で鹿島を見やった。佐藤さんの試合がもうすぐなのでアップの仕上げをしているんです。
洗馬さんは今日はお留守だと聞いたのでお借りしています、試合が終わったら片付けますので、とはその佐藤という男のセリフだった。左右ストレート、左右フック、左右アッパー、左右前蹴り、左右横蹴り、左右後ろ蹴り、左右ハイキックとゆっくりと一定のペースで続けているその足元には汗で小さな水溜りができていた。
「まあ洗馬さんは今日はお出かけだから、片付けてもらえればいいけどアップって言ってもやりすぎじゃない?」
今日は寒いですからね。最初からギヤをトップに入れるためにはこうやって暖かいところでじっくり身体を温めたほうがいいんです。そう佐藤が言うと、そうらしいです、と的場が相槌を打った。
「的場さん、暑いでしょうからいていただかなくても結構ですよ」
ハイキックを繰り出しながらの佐藤の言葉。的場は微妙な表情をし、珍しいしここで見てますと答えた。鹿島はぴんときた。教官業などをやっているが彼女はまだ28歳なのだ。そういう嗅覚はきちんと備えている。何も言わずに一度廊下に出て、自分が持ってきていたコンビニのビニール袋を拾い上げた。中には箱入りのアイスがある。
「的場さん、バニラとあずきと抹茶とチョコ、アイスはどれが好き?」
的場は怪訝な顔をしたが、それでもあずきと答えた。怪訝な表情も仕方ないだろう。この部屋は例外的に28〜30度に設定されているが、あくまでも建物の外は冬の京都なのだから。アイスを持ち歩く人間がいるなんて思えないはずだ。
箱の封を一つ開け、あずきのバーアイスを取り出して渡してやる。ありがとうございますと的場は嬉しそうに笑った。でも、どうしてアイスなんか、それもこんなにたくさん?
まあ、今日はこの建物はいろいろあるみたいなのよ。そう言って笑った。空気を切り裂く拳の音は淡々として途切れがない。