室内の様子に佐藤良輔(さとう りょうすけ)はぎょっとした。ここは現在剣術トーナメントが行われている屋根つきの訓練場に隣接する事務施設で、二階には基本四職業の各教官の教官室が並んでいる。それぞれの部屋は自分がこの街で借りている2LDKの二部屋を合わせたよりも広く、そのため教官の不在をいいことに利用させてもらっていたのだった。広い部屋を中央で二つに区切る背の低い本棚と応接用の机とソファ、そして教官その人が使う事務机。余裕を持ちつつ部屋を満たしていたそれらの什器は佐藤の手によって全て壁に移動され、出来上がった空間には中央を囲むように二台の石油ストーブ、そして汗の水溜りができていたはずなのだ。しかし、今ドアを開けた佐藤の前にある部屋は什器こそ同じように動かされていたものの床の上の汗はぬぐわれていた。
この街の探索者のすべてが共有する感情に教官と理事への畏怖というものがある。日々死線を渡るものにとって何よりも大切な生き残るための力で自分達よりもはるかに上の存在に対するそれはごく自然な感情で、部分的にとはいえ解放されているのは三百人以上いる探索者にあっても理事と血縁である笠置町姉妹、本人も優れた才能をもち魔法使いの教官とは友情を結んでいる高田まり子(たかだ まりこ)くらいのものだった。もちろん佐藤も大多数の一人であり、その部屋が片付けられつつあるありさまは彼を恐慌状態に陥れた。
まさか、まさか。この部屋の主である洗馬太郎(せば たろう)は終日大阪に行っていると連絡の黒板には書いてあったのに、まさかもう戻ってきているのか?
戻ってきて荒らされた部屋に驚き、犯人がわからないながらもとりあえず部屋の片づけをしている最中なのだろうか?
もし自分だったら、そんな仕打ちをされたら不機嫌にならずにはいられない。そして自分の不機嫌とこの部屋の主の不機嫌とはそのおそろしさにおいて別次元の違いがあった。
「あら、佐藤さんいいところに」
女性の声が背後から響き、佐藤は思わず驚きの声を上げた。声をかけた女性もつられて小さな悲鳴を上げる。恐れるべき相手なら決して漏らさないその小さな悲鳴が佐藤の恐慌を宥めてくれた。振り返ると、低い位置に見慣れた笑顔があった。
「驚かさないでください、的場さん」
的場由貴(まとば ゆき)は怪訝な表情をしていた。当人に驚かせるつもりはまったくなくそれなのに大げさに怖がられて非難されたら釈然としないのも当然のことだろう。それでも逆らわないことにしたらしくごめんなさいと小さく頭を下げた。今度は佐藤が恐縮し、彼女が手に持ったバケツが視界に入る。なかには湯気をあげるお湯が満たされ汚れた雑巾が沈んでいた。
「この部屋、もしかして的場さんが?」
そうですよとこともなげに言い捨てて、小柄な女性は脇をすり抜けていった。ちょうどいいからストーブ片付けてきちゃってくださいねー、という言葉に慌ててストーブを二つとも持ち上げた。これらはこの部屋の備品ではなく、ひとつは寒い訓練場で戦士の教官があたるためのもの、ひとつは一階の小会議室に置かれているものだ。
部屋を出ようとして鼻歌に振り返る。自分の汗は思ったより飛んでいるのだろうか、壁ぎわまで寄せられた什器を丁寧に雑巾で拭いている小さな背中に視線を置いた。初めて会った人を見るような、それまでとはほんの少し違う視線で少しのあいだ見つめ、不意に夢から醒めたようにまばたきを繰り返すとドアを閉めた。