歩いていたら後頭部を叩かれて、鈴木秀美(すずき ひでみ)は非常に驚いた。普通の人間とはほんの少しだけ違う家庭で育った彼女は無意識のうちに周囲に気を配る癖がついており、自分に向けて物体がある程度以上の速度で向かってきたら警告が鳴るようになっていたはずだ。実際その手のひらは毎日のように自分を襲ったものだがこれまでは寸前で頭をさげて避けていたのだ。
驚いたのは攻撃者も同じだったらしく、青島千尋(あおしま ちひろ)は自分の手のひらと鈴木の顔を見比べた。
「痛いなあ。ひどいですよ、青島さん」
「いやだって、避けない秀美ちゃんが悪いんじゃない」
背後から声もかけずに後頭部を叩こうとしたら避けられる方がどうかしている。言葉の不条理に気がついたか青島は苦笑した。そしてわずかに心配げな表情を浮かべた。体調でも悪いの?
「うーん、自覚はないんですけどお昼に運動したからちょっと疲れてるかもです」
あらそう、お大事にねといたわる表情に笑顔を返し、並んで歩いた。向かう場所は同じで、一人にとっては職場にあたり一人にとっては学び舎にあたる。
「体調が悪いっていうより、なんか変わったかも。ちょっと空気がやわらかくなったよ」
そうですか? 嬉しいなとあやふやに笑うものの自覚はない。予備校の自動ドアを抜けて教室に向かう階段を登りはじめた足を、青島の足が止めた。
「秀美ちゃん、前に頼んでいた自主映画のさ」
「ああ、エキストラですよね。いつでもいいですよ。この間実家から制服持って来ましたから」
「そうじゃなくて、あれ、やっぱりいいわ」
「あら。けっこう楽しみにしてたんですけど」
見上げてくる顔はなんだか嬉しそうだった。
「秀美ちゃん、やっぱりなんだかいい感じになったよ。昨日も会ってるけど、今日は目をひきつけて放さないもの。それは秀美ちゃんにとってはいい変化だけど映画の背景には向かないからね」
今度、もっと重要な役でね! そう言い残して青島は講師の控え室へ消えていった。鈴木はしばらく階段の半ばに立っていた。ふむ、と一つうなずく。
「もしかして甲斐はあったのかな?」
ふと呟くとまた登りはじめた。口元には穏やかな微笑が浮かんでいる。