真壁啓一(まかべ けいいち)の通っていた高校では二年次〜三年次の体育の授業として剣道と柔道を選ぶことができたが当然のように柔道を選んだ。理由はたった一つで共同使用される面や篭手が臭かったからだ。それでも剣道クラスを選んだ生徒たちが(授業の直後は嫌悪感しか感じなかったが)廊下で飛び込み面をやっているのを見てかすかな憧れは抑えられなかった。どんな子供でも取っ組み合いよりはチャンバラの方が好きなのだから。大学に入学し山手線から埼玉方面に伸びるある私鉄沿線にアパートを借りたとき、すぐ近くには小学校があり教職の授業で比較的帰りが遅くなった夜などは、その中から気合の声と床を踏みしだく衝撃音が聞こえてきてそれもまた畏怖と興味と憧れを駆り立てていた。
この街を訪れた最初の日である11月1日、真壁は体力テストの途中である男性に呼び寄せられた。三原という名のその男は真壁に激励を送ってくれたが、その心により大きな衝撃を与えたのはその背中に水平にくくりつけられている一本の(いま思えば自分が使うものよりも少し短めだった)鉄剣の柄だった。自分はとうとうこれを振ることになるのだ! それまで基礎的なものを重視するスポーツに明け暮れていた真壁はその訓練として当然剣道はあるのだろうと思っていたし、大きな楽しみ(ネットで調べた結果、竹の防具と手縫いの垂れを買おうとまで思っていた)にもなっていたのだ。
しかし、期待していたような剣道の訓練は施されずそこにあるのはチャンバラだけだったことが彼を落胆させた。その一方で彼があこがれた剣道を高い水準まで修めた娘に手も足も出ないことがその技術の神秘性を高めさせた。
そういったこと全てがあって、彼にとって目の前の訓練の風景は興味深く貴重なものだった。袴を借りた女子高生へのお礼を兼ねて、その率いる部員達を並べさせて笠置町翠(かさぎまち みどり)が命じたのは淡々とした素振りである。しかしすり足、重心、肩の力、剣筋、その他真壁が気づくことのできないような全てのことについて翠は一人一人丁寧に指導しており、そのためか寒い訓練場の中のゆったりした素振りなのに全員が五分で汗を浮かべている。さすがに部長というべきかその中では袴を貸した娘がもっとも直される個所は少ないようだったが、それでも真壁にはわからないようなほんのちょっとした背の伸ばし方などを修正されていた。
「俺に対してもそれだけ真剣に指導してくれたらよかったのにな」
呟きは相手に届かせるためのものではなかったのでほぼ口の中だけのものだったけれど、娘の耳はそれを捕らえたらしい。腰に手を当てたまま振り返って笑った。
「この子たちの日本剣道と真壁さんが地下で必要とするチャンバラは、入り口はまったく別の場所にあるのよ。進んでいく先は同じで私とか鈴木さんとか寺島さんくらいまでやれば実戦で使えるようになるけど、明日地下に潜る人間に教えるには悠長すぎるかな」
まあそんなものだろう、という気がした。その試合を見てはいなかったが、全日本剣道大会でベスト16になったことのある自衛隊員が出場して一回戦で負けたという話は聞いていた。破った寺島薫(てらしま かおる)は剣の闘いでは到底かなわないと気づいて何でもありの勝負に持ち込んだらしいが、寺島のような第一線の達人でなおかつ日本剣道の心得もある人間に何でもありをやられてはさすがにベスト16でもかなわなかったのだ。それでも一人一人の姿勢を眺めて翠がどこを直すかは非常に勉強になった。
背後に来ていた真城雪(ましろ ゆき)にこづかれるまで気づかなかったのは真剣だったからだ。振り向いて苦笑する端正な顔に謝ると、彼女は直截な質問を投げかけてきた。
「次の勝負、お前はどっちが勝つと思う?」
答えは同時に二人からもたらされ、それは同じ単語だった。女子高生に指導をつけている娘もそれを眺めている男も間髪いれず「黒田さん」と答えたのだ。真城はその迷いのなさに笑みを深くし、理由を問い掛けてきた。
真壁は一歩譲った。長い付き合いのため譲ったほうがいい場合の呼吸はわかっている。
「黒田さんは私に勝ったから!」
その回答にあんまりだという思いを込めて女帝と呼ばれる女の顔を盗み見た。すると彼女も困ったような助けを求める視線を送ってきている。真壁は心の中でため息をついた。この地獄耳の娘のそばにいるようになり、自分は表に出すため息の回数が減ったなと思いながら。
「てことはあれか。真城さんに勝った神足さんに勝った国村さんより、翠に勝った黒田さんのほうが乗り越えてきた障害はでかいと、そう言いたいわけだな君は?」
途端に翠は視線を泳がせ、一瞬後には振り向いて一人の素振りを直しはじめた。再び苦笑を交わしてから真城が真剣な視線を送ってくる。
「技術は黒田さん、体力的には互角ちょっと国村さんが上。だからベストなら互角だと思うんですけど」
「国村くんのほうがダメージが深いと?」
「ええ。昔読んだ本に書いてあったんですけど、ええと、『実際にその戦闘でこうむった物質的被害よりも、まだ残っているはずの余力を減衰させてしまうような想像上の被害による士気の損失をこそ重視して対処するべき』だったかな。二人ともかなり痛めつけられて、普段だったら治療術が入るタイミングでもまだ痛みを放置されている。俺たちってなまじ治療術があるために継続する痛みには弱いですよね。そういう状況で気力だけが頼りでいる国村さんにとって、最後の最後で黒田さんが木刀を弾き返したっていう意味は大きいですよ。あいつはグロッキーなはずなのに、寝ていたのに、俺が苦労した木刀を叩き落しやがったってのは結構へこむと思うんですよね」
「あれ他のより防ぎやすかったよね」
翠の背中が相槌を打った。真壁はうなずく。
「あの時は気づかなかったけど、いま思えば神足さんはあの時点で黒田さんのアシストだったんでしょうね。実際、黒田さんのあの元気を見せられて棄権しない国村さんはすごいと思いますよ」
女帝は腕を組んで幾度かうなずいた。
「うん、参考になった。ありがとう!」
真壁の肩をぽんと叩くと小走りに走り去っていく背中は楽しげで、見送って真壁は翠と顔を見合わせた。