ああん、もう! と苛立たしげな声に鹿島詩穂(かしま しほ)は振り向いた。訓練場への入り口、靴を履き替えるべき個所で彼女の上司である迷宮探索事業団の理事、笠置町茜(かさぎまち あかね)が立ち往生している。一瞬だけ考えて答えに思い当たった。
「茜さん、もしかしてここに体育館ばきを置いてらっしゃらないんですか?」
「今日初めて入るわよ。体育は昔から大嫌いだったから」
この訓練場を管理する教官の一人である鹿島は当然自分の靴箱を持ちスニーカーを置いている。用品の管理も教官の担当である以上に彼女もまた美容を気にする28歳の女なのだから、空いているときを見はからってはストレッチやダンベル体操などをしている。だから当然理事も靴を常備しているものだと思っていた。それならばとダンボール箱の中の来客用スリッパももう空っぽで、普段ここを利用しない後衛や一般人の来客数がうかがえた。
「じゃあ、ちょっと待っててください。私たちのところからスリッパ持ってきますから」
いいわよ別に、と声が聞こえてその方向を向き、鹿島はぎょっとした。それはわずか一センチにも満たない違いだったが自分の上司の身長が伸びた、いや、少なくとも目の位置が高くなったことを知ったからだ。
このひと浮いてる!
それは彼女自身がつい先日に目の前の女性から授けられたもので、あらゆる物質が受ける引力に対して干渉することができる禁術だった。自分達が日々暮らしているこの惑星ほどに巨大な質量の引力すらも消去することができるこの術を使用すれば、遠心力を利用して物体を宙に浮かせることだってできる。それはもちろん個人には許されない種類の行為であり、学んだ際には目の前の女性の許可なく使用すると罪悪感を感じて集中を乱すような暗示をかけられていた。教わったときにも扱いは慎重にするように何度も注意され、痴漢されたくらいで使ってはいけないと申し渡されている。鹿島にとって痴漢は死刑に値する罪だったから相当程度の自制が必要だと心に命じていたものだ。
もちろん鹿島も自分が人間であることは知っている。どんな初歩の術であろうとも完璧に制御できる、と言ってのける自信はなく、であれば物体一つを地表から消滅させられるような術を気軽に使用してはならないことはわかっていた。だから、理事の暗示に重ねてどうしようもない局面以外は思い出しもしないように自分でも暗示をかけているのだ。それほどまでに管理に神経質になるべき術をこの女性は訓練場に靴下であがって汚れるという状況を避けるためだけに使ったのだ。その能力となにより価値観の相違にはあきれて何もいえない。
「おやめください! ひとに見られます!」
小声でたしなめても大丈夫と手をひらひら振るだけだ。鹿島はため息をついた。こうなってはたとえスリッパを持ってきても履こうとはしないだろうし、先ほどまでの単純作業で昂ぶっているのだろうか? ――そばを離れてはいけない気がする。
「あら、駿くん ――大きくなったわねえ!」
嬉しそうな理事の声、遠ざかる背中を慌てて追った。ほんのごくわずかとはいえ宙に浮いているのだから足を動かさなくても進めるのだが、それをしないのはせめてもの偽装だと思っていいのだろうか? あるいは術を使ったことをもう忘れているのかもしれない。
「今日はどうしたの? 働くお父さんを見に来たの?」
中学生でそれはないだろうと苦笑する。橋本駿(はしもと しゅん)という名前のこの少年は、戦士たちの教官である橋本辰(はしもと たつ)の一人息子だった。確か剣道の京都府個人戦で優秀な成績をおさめたのだとは父親である同僚から自慢されていた。剣に興味があるなら日々実戦で鍛え上げている探索者たちの闘いに興味を持っても不思議はない。おそらく見稽古に来たのだろうが、顔色が浮かないのはどうしてだろう?
「つまらなかったのですか?」
笑顔を浮かべて尋ねると、まだ中学生の少年は頬を赤く染めた。同僚は短く刈った髪だけではなく全身で無骨さを発散させていたが、息子は線の細いかわいらしい顔立ちをしている。母親の血が濃く流れているのかもしれない。少年は何か答えようとし、しかし視線を逸らし口ごもった。
「焦ることないわよ。橋本さんがあなたを鍛えなかったのは仕方なかったことなんだから」
はっとして顔をあげた少年に、小太りの魔女は微笑んでみせた。そんな二人を眺めながら鹿島は頭を必死に働かせた。つまりこの少年は、『人類の剣』である父親が例えば笠置町翠(かさぎまち みどり)が施されたような訓練を自分に課さなかったことを残念に思っているということなのか? 会話すらなかったやり取りでどうしてこの中年女性はそれを感づいて自信たっぷりに口に出せるのか鹿島にはどうしてもわからなかった。それは娘を二人育て上げた母親として得たものなのか、あるいは森羅万象の髄まで感じ取りエーテルを集めることができると賞賛された感性によるものなのか、どちらも鹿島には未知の世界だからわからない。
「仕方なかった?」
おうむ返しに問い返した少年の顔にはいろいろな色が混ざっている。理事はうなずいた。
「橋本さん、うちの旦那に会うまで助成金のことを知らなかったのよ。知らなかったんなら、わざわざ子供につらい思いをさせたい親なんていないわ」
え、じゃあ! と鹿島は声をあげた。橋本辰が遠州と呼ばれる老人に認められたのは16歳の時だったと聞いていた。現在彼は38歳だったか? 22年間もの間の助成金はどうなったのだろう。言外ににじませたその疑問に理事はただ、私たちの中で一番のお金持ちは実は橋本さんなのよ、とだけ答えた。
未払いの助成金はいったいどれくらいになるのか? 右手指が素早く動いて架空のそろばんを弾く。17歳から一昨年までとして36歳、19年間で毎月10万円の助成金が累積したらどれだけになるのか――?
「ずっと銀行に眠っていたことも忘れちゃダメよ。20年前の高金利複利でね」
結果は複利計算をする気にもならないものだった。
「私たち、どうして今まで飲み会は割り勘だったんでしょうか・・・」
惨めな思いで呟いた。そういう自分だって人類の剣として認定されたのは17歳のとき、現在までには11年という歳月を経ている。日々の暮らしをしている上では気づかなかったが、積み上げれば莫大な金額になったと知った今ではその助成金はどこに消えてしまったのだろうと我がことながら不思議だった。
助成金が出るということを知らなければ、わざわざ子供につらいことを強制したい親はいないわ」
この横顔はわかる。その横顔は、娘を二人もってつらい道を歩ませたことを省みたことのある母親の顔だった。鹿島は深くうなずいた。自分の修行時代を振り返ってみれば、それは親子という絶対的な上下関係で強制していいものかどうかは判断がつきかねるものだったからだ。しかしその鍛錬を知らない少年はでも、と言い募った。
「そして、子供が真剣に学びたいと望んだ時に無視する親もいないわ。あなたのお父さん並みにはちょっと無理でも、うちの旦那くらいにならなれるわよ。一度しっかりとお願いしてみなさい、橋本さんに」
元気よくうなずき一礼して歩み去る背中を温かい視線で見送ってから、ふと上司の顔を眺めた。このひとは娘たちに技術を伝えたことを後悔しているのだろうか?
しかしそんな翳はどこにも見えず、それまでより明らかに2センチほど余分に浮遊していることに気づいた。慌ててその肩に手をかけると地面に向けて押し付ける。必死なのは、気をつけて見れば浮いていると気づける状態だったからだ。板張りの床の冷たさに理事が悲鳴をあげた。