小声で名前を呼ばれ、黒田聡(くろだ さとし)は薄目を開いた。それだけの動きでこめかみが鋭く痛んだが、顔をしかめたことを察したのだろうか? 見下ろす人影の表情が曇ったことに気づくとあわてて笑顔を浮かべた。気のせいかもしれないが、顔を笑顔に保てばかすかに間断なくつづく頭痛が弱まるような気がする。
「こんにちは、まり姉。お仕事は終わりですか?」
黒田の部隊のリーダーである高田まり子(たかだ まりこ)はうなずくと、その頭のすぐ脇に腰を下ろした。黒田は上体を起こすと周囲を見渡した。視界の端でこちらの動きを気づいたのだろうか? 真壁啓一(まかべ けいいち)がもの問う視線を向けてきている。彼に向けて黒田はまず高田を指差し、そして土嚢の段差を指差した。真壁は一瞬で了解したらしく、土嚢に置かれていた自分の雑誌を持ってきた。もう日が傾いており冷えこんできたこの会場ではめいめいがこうやって尻の下に敷くものを用意していたが、目の前の女性にはその用意がなかったのだ。高田は恐縮したように雑誌を受け取るとその上に再び腰を下ろす。
「どう? 体調は」
「さつきさんに今度会ったら、いつもありがとうございますと言うつもりです」
高田は苦笑した。地下であれば行動を阻害されるような打撲を放っておくはずがなく、打撲と痛みをやわらげてくれるのは治療術師である縁川さつき(よりかわ さつき)の役目である。いま、顔のほとんどが赤く青く変色するほどの怪我を負ってそのありがたみを再確認したというところだろうか。
高田はしげしげと打撲を覗き込み、本当につらかったら棄権してもいいんだよ、と言った。黒田は微笑んだ。
「さっきまでうとうとと、越谷さんの夢を見ていました」
高田は眉を寄せた。
「――亜美の夢? あの子とクロって仲良かったっけ?」
「いえいえ、違います。その越谷さんじゃなくて、ええと――青面獣です」
「ああ、こっしー」
そう、こっしーです。黒田はうなずき、少し言葉を選んでいるようだった。
「体力的に俺が劣っていた部分はなかったと思うんです。でも、手も足も出なかった。キャリアだって同じくらいだったと思います。2〜3日はやく来ただけだったんじゃなかったかな、あの人」
高田は首をかしげた。彼女は第一期の募集締め切りぎりぎりにパスを手にしたので、各人の時期的な関係は今ひとつわからないでいる。
「身体能力では俺の方がずっと上だった。それをどうひっくり返していたんでしょうね、あの人は」
突然の呟きは、自分より身体能力では勝る男との決勝戦を前にしてのことだろう。高田は話題にのぼっている越谷健二(こしがや けんじ)という故人のことを思い返した。目の前の男との違いは何があるだろう? 
高田からすれば二人とも見上げるような長身だったからその差はわからないけれど、筋肉質だが精悍な細身であることは同じだった。越谷の戦いぶりは見たことはなかったが、速い動きと強烈な打撃というオーソドックスな戦い方は同じだと神足という仲間が評していたのは覚えている。であれば精神的なものだろうか? しかし周囲にやさしく笑顔を絶やさない姿勢こそが何よりその二人に共通したものだと思えた。
「あ、まり姉、髪型変えましたか?」
考え事を破られて苦笑した。変えたといっても午前中は気づかれなかったことが示すように毛先を揃えた際に美容師と相談しながらほんの少しだけ工夫してみただけに過ぎない。すでに二日たって普段と同じようにブローした結果誰も気づかないだろうと、気づくのはきっとこの世で羽賀研二くらいだろうと思っていたのだが、この男だったらわかるかもね、という気もする。そして一つ気がついた。
「こっしーだったら気づかなかったろうなあ。あの子は女を宝石飾り台くらいにしか思ってないフシがあったから。自分の興味のあること以外は鈍感な子だった。クロは反対だね。何でも気がついて言葉をかけて――だからこっしーはモテなかったし、クロはモテるのか」
黒田は何か考え込んだようだった。その間も高田の中で故人は踊る。
「そういえば、あの子が言った言葉で印象的なのがあったわ。人間が失敗するのは本来の目的に加えて自尊心をくすぐるような小さな成果を求めてしまった時だって。さっきの翠ちゃんとの試合はまるでショウのようで見ていて楽しかったけど、こっしーだったら絶対にやらないことだろうと思う」
でも、こっしーを真似することがクロにとっていいこととは思えないわよ。こっしーとクロじゃ華が違うからね、というその言葉はフォローだろうか? しかし黒田には届かなかった。むかし、と呟いた。
「むかし、越谷さんと熊谷さんと草津温泉に行ったことがあります。三人でレンタサイクルを借りてスキー場のところから白根山の山頂まで競争をしました。普段越谷さんは自転車に乗っていましたけど、その場では自転車の条件は同じ。そして体力的には三人の中では一番劣っていたと思います。けれど俺たちは5分も差をつけられました」
そういえば、その時言われたんです、と黒田は懐かしそうに笑った。
「自転車に乗ったら顔を伏せてハンドルを握り締めて、あとは足だけ動かすんだって。顔を上げたり景色を見たり汗を拭いたり、余分な動作を一つすれば一秒タイムが遅れるんだって。確かにあの人のすることには無駄なことはほとんどなかったな」
目を背けたくなるほど痛々しい顔は、しかし穏やかに微笑んでいた。そんなこと思い出したからって、目の前の国村さんとの勝負に役に立つとは思えませんけど、と照れたように笑ったその顔にリーダーであり年長である女性は暖かくうなずいた。どんな立派な言葉も、言われる人間に受け入れられる土壌ができていなければ意味はない。いま、目の前で一人の男が大事なことを血肉にしたのだ。それは心浮き立つ情景だった。
「すぐに役立ちませんけど、とにかく次の試合からちょっとやってみます。踏み込むときはそのことだけを、剣を振るときはそのことだけを、勝ち負けはちょっとよそにおいてやってみます」
そして失礼しますと呟くとごろりと横になった。早速、今は休むことだけを考えるようにしたのだろう。即座に寝息が漏れ始めた顔を暖かく見下ろすと、足音大きく歩み寄ってきた津差龍一郎(つさ りゅういちろう)にとがめる視線を向けた。
この眠りは守ってあげよう。なぜかそんな気分になっていた。