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前衛の一人である恩田信吾(おんだ しんご)が「いちごジャム」と呼ばれる粘塊の中心細胞に剣を突きたてたまま振り返った。残りの五人に「終わった」と声をかける。ほっとした空気の中、小寺雄一(こでら ゆういち)の視線はあるものをとらえていた。部屋の一角、いちごジャムを発見した場所に空間のゆがみがあった。
「お宝発見。罠をはずすんで周りへの注意頼むな」
恩田からの返事を確認して慎重にそのゆがみに近づいていった。ゆがみは床の一点をかこむように発生していて、その中心にはなにかが落ちている。はげしく光線が屈折しているためにそれが何か、どんなサイズかも信用できない。内容物を確認することをあきらめ、ゆがみの一番周辺から眺めていった。同時に心を静め、自分の右斜め後ろの空間にあるエーテルが右肩から右腕を伝い降り、右手指先から左手へと流れる様子を想像する。最初はうまくいかなかったが、訓練場で散々叩き込まれた腹式呼吸を思い出した。イメージをとどめながら意識は眉間に集中する。ぞろり、と背後の空気が動き出した。最初は緩急をつけながら、思い通りに流れの帯ができたことが感じられる。口の端をもちあげたのは、緊張をやわらげるため。右のまぶたがかすかに痙攣している。
エーテルの帯が十分に安定したことを確認してから左手の小指を折り曲げた。指先からこぼれるエーテルがわずかに収斂され強くなった。ついで薬指、そして人差し指を折り曲げて中指だけを立てるとエーテルは早く強い流れになる。ゴムホースの口を狭めて流水を強くする要領に近い。
その指先を、ゆがみのもっとも左側でいくつか重なっているところにあてる。そこが一番外側のゆがみの流れの中心点だった。ここをほぐせば流れは霧散してしまうはずである。はたしてしこりをほぐすような感触とともにゆがみの半径が半分近くになった。一度イメージを消し、脱力する。頬を流れる汗をハンカチでぬぐった。
外側のゆがみが消えて、いわゆる罠と呼ばれるものが明らかになった。球形を成すように流れるゆがみの中心に、水色のわだかまりが見えた。これは本来無害であるエーテルに負の方向性を持たせたもので、触れてしまうとじわじわと体力を消耗させる悪寒となって陽光をあびるか活性薬を注射するまで体力を削りつづけるものだった。毒気と呼ばれる一番ポピュラーな罠である。
「活性薬は買えなかったからなあ・・・」
感染してしまえば最後、治療術師に応急処置を施してもらいながらなんとか地上に出るしかないという。小寺は少し考えた。仲間はすでにいちごジャムの死体を切り取り一部を回収したようだ。一応の稼ぎはあるということになる。自信を持てないようならあきらめてもいいところだ。自分の命を賭けていいほどの成功確率はあるだろうか?
いける。
球形のゆがみを形作っている集約点は二つあり、左側から右側へと流れるようになっている。右手で壁を作りつつ、左側の集約点だけを破壊してやれば負のエネルギーは誰もいないところに放出され、拡散して無害になるはずだ。訓練場では同じ球形であっても集約点が七つのものを無力化したこともある。それに比べれば決して難しいものではなかった。
目を閉じ意識を集中すると、胸の前で広げた右の手のひらに沿うように空気中のエネルギーが流れ出した。それは薄い幕となって小寺の前面をすっぽりと隠した。視界をさえぎらないようにできるだけ薄く、しかし事故を防げるようにできるだけ強く。難しいその作業をこなしつつ、左手で鉄砲の形を作って人差し指をその幕に近づけた。幕を指が越えた一瞬でためていたエーテルを打ち出し、左側の集約点を破壊しなければならない。
訓練場なら鼻歌を歌いながらできた作業だったが、さすがにはじめての本番では緊張感が違った。緊張は過剰な集中を要求し、その結果としての視野狭窄をひきおこす。だから、陰に潜んでいた新手の怪物に仲間たちがいきなり襲われたことを気づけなかった。
指鉄砲から放たれたエーテル塊が左側の集約点を破壊した瞬間、その肩を誰かにつかまれた。右手で作っていた幕が消え失せた。
「逃げろ小寺! 敵だ!」
――敵?
その言葉を理解すると同時に身を翻す。罠は無力化してあったが今となってはお宝もあきらめるしかない。視線を移すと前衛の一人である小俣直人(おまた なおと)が頭を押さえながら走っていた。その手の下から血が流れ出している。青白い顔で、目には涙を浮かべていた。
部屋の扉を蹴りあけ、地上への出口に向けて走る。50メートルほど走った時点で後ろを振り返ってみたが、もう追っては来ていないようだった。大丈夫だと声をかけようと前方を見ると仲間たちは依然として潰走を続けている。大声をあげようとして、ふと妙なだるさに気が付いた。
まさか、触れていたか? 毒気に?
小寺は二つの間違いをおかしていた。
一つ目は、無事に罠を解除できたと思ったこと。解除自体は完璧にこなしていたが、肩をつかまれたことによって防御幕が消えてしまい、かすかに飛来した負のエネルギーに毒されていたのだ。急激な運動によって悪寒は全身に行き渡り、治療術師に体力を分けてもらおうとあげた声は病人のようにかぼそかった。目がくらむ。
そして二つ目の間違いは、敵が追ってきていないと判断したこと。
消耗して膝をついた小寺の頭を、きっちりかぶっていたフードもろとも、錆の浮いた銅剣が叩き潰した。