14:10

「星野二尉!」
階級つきで呼びかけられてほんの少し戸惑った。地上の詰所ならともかく、このなめらかな岩壁に囲まれたひんやりした空間でそう呼ばれることは最近少なかったからだ。
ここは迷宮第四層。現在のところ、探索者たちが到達している最深部にあたる。星野の部隊がここに下りるようになって二週間が経っていた。他には現在同行している高田まり子(たかだ まりこ)率いる部隊しかいない。彼らと同等より上の能力を持つ部隊として、常に最有力だった三原俊夫の部隊があったが先日壊滅した。
本日の用件は探索ではない。二部隊がここに到達したことによって四人の陸上自衛隊工兵隊の護衛が可能になったため、この階層における送電と電話の設備を完璧にするのが目的だった。
迷宮内部の第一〜三層には各所に電気照明と地上への直通電話がセットされているが、それは当然もとからあったものではない。こうして探索者たちの部隊の護衛を得て自衛隊が設置しているのだ。軍人が民間人に護衛されるあべこべの構図はこの迷宮にふさわしい。
そうはいっても星野幸樹(ほしの こうき)はその階級が示すように陸上自衛隊に属する軍人である。安定した探索活動を推進するために自衛隊から派遣されているいわば雇われ探索者である。そういった軍人が、現在迷宮街には三人存在している。最初に派遣された五人の自衛隊員は星野を残してすべて殉職してしまったが。
星野の名を呼んだ女性隊員は壁の前に立っていた。壁は一部が崩れ、その向こうには真っ暗な、しかし広がっている気配は感じられる空間が見える。
「鳥羽一曹か。何か?」
「先ほどこの周辺は終了とおっしゃいましたが、この先はよろしいのですか?」
怪訝そうな声も仕方のないことだ。壁の崩れは十分に人が通れる隙間があるし、ライトで覗き込む限りは地面は――すこし低いようだが――しっかりとある。探索すべき場所だった。その崩れ目を、強烈なエーテルの流れがゆきかっていなければだが。迷宮内に充満しているエーテルとはそれを使って魔法使いや治療術師は奇跡を起こすし怪物は自分の宝物をそれを使ってくるみ保護する未だ正体不明の物質だったが、それだけではなくこのように一見通れるような空間を遮断したり、一方通行しかできない空間を作り出すこともあった。
この崩れ目を遮断するエーテル流に関しても星野の部隊の罠解除師である伊藤順平(いとう じゅんぺい)は何度も調査していた。ここ数ヶ月、罠の解除に失敗したことのない彼は迷宮街でも明らかに五指に入る罠解除師だったがその伊藤にしてもさじを投げたのだ。つまり、今の情況では通れないということになる。
しかし、と疑問に思った。エーテル操作に対して素人もいいところの自分ですら気づけるこれだけの障壁を彼女は気づいていないのだろうか?
「鳥羽、この崩れた部分に異常を感じないのか?」
「いえ、特に、何も」
第三層にもこのようなエーテルの変調個所は随所にあった。それはすべて、彼ら自衛隊員にもなんとなく認識されていたはずだ。それが、気づいていないとは――。
思考は産毛の立つ感触でさえぎられた。何かが自分を包んでいる。それが目の前の障壁と同種のエーテルであること、しかし明確な敵意がこもっていることに気づき周囲を見渡す。同じように緊張している探索者が二部隊十二人。そして棒立ちになって何も気づいていない四人の自衛隊員。
――感じられないのか? 彼らには?
エーテルが鳥羽一等陸曹の背後に集中した。見る間にそれは人の上半身をかたちづくり、たくましい両腕が鳥羽を抱きしめた。鳥羽が痙攣した。は、は、は、は、と粗く息をつくその唇が、肌が、休息に干からびていく。水分が抜かれていくより、どんどんと老婆になっていくように見えた。年齢は彼より若くまだ二七歳だったと思う。
彼女の名前を叫ぶ声と踏みこんだ斬撃とは同時だった。歴戦の戦士の切っ先は鳥羽を抱きしめるその腕を切断し、返す刀を頭蓋に振り下ろす。エーテルが実体化しただけの存在は、物質化したまま床に叩きつけられた。鳥羽の身体を抱えたまま。
「星野さん! 敵です! 警戒を!」
自衛隊を護衛していたもう一部隊のリーダーである高田の声が響いた。同時にその背中の向こうに火の海が発生した。
のっぺらぼう、ということは死体食いがいるはずだ。そして向こうは尼さんか――。
のっぺらぼう、とは鳥羽を殺した化け物で、正式名称はシェイドという。高い確率で、腐肉を常食にするロッティングコープスという化け物を従えている。魔法使いである高田まり子が焼き払ったのはプリーステス、という小柄な治療術者だった。とはいえ人間とは明らかに生物学的に違う、単なる二足歩行で高い文化をもつ生物なのだが。
彼らは二つの集団に襲撃を受けたのだった。
熱風が星野の背中を叩いた。そして「死体食いはすべて倒しました」という静かな声が続く。彼らの魔法使いがロッティングコープスの群れを焼き払ったらしい。これで戦闘は終結かと思った瞬間、意識をかく乱された。脳と手足の距離が遠くなったようなそれは、何か非常の力で延髄周辺の信号の流れが阻害されたときに起こる。
――金縛り!
まだ魔法使いがいたらしい。
「星野さん! 緑龍です! 二匹!」
ガスドラゴンと呼ばれる、ワゴンカーほどの大きさがあるトカゲだった。全身はくすんだ緑色のキチン質に包まれており、口からは高温の硫化水素ガスを吐き出す。いま彼らに金縛りの術をかけてきたように初歩の魔法を使うことすらできる。先手を取られたらまず生還は難しい難敵だった。それが二匹も。頭をふって意識を取り戻し、高田の方を向いた。
二つの巨大で緑色の影がわだかまっていた。そしてその前には高田の部隊。しかし前衛たちが剣を抜いていない。揃って金縛りになってしまったようだった。
ここから剣を抜いて駆け込んでもそれまでに一度は硫化水素の洗礼が下される。これまでに数度の戦闘を経ていた彼らでは死者がでることが予想された。星野は右の腰に作った隠しポケットから拳銃を引き抜いた。
銃声は四度。
一匹に対して二つずつ、鉛の弾丸がその脳を破壊していた。地響きを立て、緑竜は前のめりに倒れた。
星野と高田が号令をかけ、自衛隊の三人を半月形の陣で囲みこんだ。しばらくして高田が息をついた。
「助かりました、星野さん」
星野はうなずきを返しただけだった。終わってみれば鳥羽が死んだだけの損害だ。もちろん同僚を失ったのは悲しいことだが心動かされないくらいには死を眺めてきている。
それよりも気になることがあった。彼らなら気づけたのっぺらぼうの来襲に自衛隊員たちが気づけなかった理由はなんだったのか。星野は鳥羽の死体を前に震えている若い隊員の肩を叩いた。そして、崩れ目を指差してあそこになにが見えるかと訊いてみた。
「いえ、暗くなってますから」
「風景がゆがんだりはしていないか」
「特に、何も」
「そうか、ありがとう」
星野はうなずいた。この階層ではもはや、素人では危険を感じることすらできないらしい。