迷宮街に来てまだ十日でしかないことに驚いた。
目がさめたら大変な筋肉痛だった。昨日は二度戦闘があったし、何より手傷を負った。怪我をすることに慣れていないから当然身体はこわばってしまい、そのために使う必要のない筋肉に力が入ってしまっているのだ。今日はツナギの補修と休息日だったので午前中はずっと訓練場でストレッチをすることにした。大学では体操部だった俺は普通の人よりずっと柔軟性とバランス感覚を気にしており、その結果200度開脚してへそを地面につけることができる。今日は初冬とは思えない暖かい日差しだったので、厚手のトレーナーを着込んで外でストレッチを行うことにした。迷宮内部は寒いから、寒い場所で筋を伸ばすことを覚えさせたほうがいいような気もして。初日のテストを行った運動場の端、芝生の上で折れたり曲がったりしながら本を読んでいたら、わらわらと今日のお客さんが出てきた。
徳永さんに連れられた人数は40名くらい。初日の俺たちが75人だったのは満を持した俺みたいな人間がいるから多いのだとしても、十日経ってまだ40人いるのは驚きだった。でもまあ、第一次募集期間は昨年夏から今年の春までの300日間だったわけだけど、訪問客がのべ15,000人いたのだからこれでも少ないのかもしれない。第一次は日に50人ということだから。ちなみに資料によると、その15,000人のうち、試験にパスした総数が9,000人あまり(俺がやった試験方法は、第二次からのものなのだ)、現在でも迷宮街に残っているものが200名ほど、志半ばで亡くなった方が2,700名ほど、残りは迷宮街を去ったという。死亡率18%! 死亡率18%! である。大航海時代アメリカ航路の難破率ですらこれより低かったんじゃないだろうか。数字にしたらあらためて寒気が出てきた。
それにしてもひどい、と彼らを眺めて暗鬱な気分になった。たった二度しか潜ったことはないけど、一つだけ思い知らされたことがある。誰だかの言葉で「戦闘は激動的なものだから、すべての判断は激動的になされないとならない」というものがあったが全面的に賛成だ。やばい、と思ったらとにかくその方向に剣をあげる、飛びのける、しゃがむといった動作が感覚と直結していなければならない。認識〜思考〜行動というプロセスを踏んでいたらもう間に合わないのだ。そして、認識〜行動にするためには二つのものが必要になる。一つは考えずとも正確に行動できるように身体が覚えること。そしてもう一つは全身の筋肉に命令がすぐ行き渡るようにしておくこと。
人間の筋肉は、力を出す筋繊維だけでできているのではない。俺の力瘤の半分は実は神経線維でできている。それによって脊髄から出される命令が身体中に届くのだ。だから筋肉は情報を伝えやすいようになるべくリラックスしていなければならない。それがいわゆる整体である、という状態だ。整体は痛みをとるのが目的じゃない。神経線維を阻害する筋肉のこわばりをほぐすことで、敏捷に身体を動かせるようにすることが目的なのだ。
整体の度合いイコール運動能力と直結してもいいと思っている俺の眼から見て、お客さんたちのほとんどはひどかった。まず直立することができていない。腰周りの筋肉が弱いからぴったりと足を合わせることができず、身体の各所から送られる情報が少ないからバランスをとることが難しい。だから左右どちらかの足に体重をかける立ち方をして、当然負担がかかるからしきりに重心を左右の足で移している。肋骨と骨盤のあいだの筋肉が弱いからそのあいだが狭く、内臓下垂してしまっている。裸になったら下腹部がポッコリ出ている人間ばかりに違いない。
これは、と思うのが一人だけいた。年齢はかなり年下。年齢下限ぎりぎりの18歳かもしれない女の子だった。ほっそりしているが背筋を伸ばして杉の木のように立っている。見るからにスピードと反射神経にすぐれた四肢は明らかに何らかのスポーツをしているとわかったけれど、優雅な印象がある。少し考えて乗馬かフェンシングと結論づけた。
前後開脚してしばらく文庫本を読みふけっている(ちなみに木賃宿には読み終わった本や雑誌を置いておく一室があって無料で持ち出せる。でも人気のマンガは大概広い木賃宿の端っこに積み上げられている。みんなそこで回し読みして誰も戻さないのだ)と、体力テストが始まった。ほとんどが一時間ももたずに脱落している中、俺のお気に入りの女の子は頭の上に土嚢を乗せてのんびりと歩いていた。そう、それが正解。俺は持ってみて両肩交互でもいけると判断したけど、筋力的に20キロがきつい女の子は最初からサバンナで水のかめを運ぶ女性にならったほうがいいのだ。
休憩時間、徳永さんにあいさつしてから彼女のところに寄っていった。目立つ場所で折れ曲がっていた男は視界に入っていたらしく、怪訝そうになんですか? と訊いてきた。とりあえず名刺を渡し、君は合格するだろうからわからないことがあったら訊きにくるといいとだけ言っておいた。


午後は地下鉄に乗って京都駅前の近鉄百貨店へ。旭屋書店で本を買い込んで、無印良品で自転車を買った。リュックに本をつめ、迷宮街まで自転車をこいでみた。知ってました? 京都駅南側の東寺の五重塔、その高さだけの高低差が迷宮街近辺と京都駅前とではあるのですよ。あー疲れた。携帯で翠を呼び出し、姉妹が住んでいるアパートにお邪魔する。彼女たちは迷宮街の北東部にあるアパートを借りているのだ。家賃は二LDKで42,000円。ワンルームがあれば俺も借りるんだけど。家には翠だけで、お茶をご馳走になって本を置かせてもらった。
夕ご飯までいろいろ話をして、五時のアルコールスタートに合わせるように北酒場へ。二人でしんみり飲んだ。あれだ。怪物じみた女剣士も、やっぱり二一歳の女の子なんだと少しほっとした。


ふと思ったけど、初日テストの休憩中に「君は合格するだろうから〜」って、まるっきり行動が三原さんとかぶっているじゃないか。前車の轍を踏まないように明日は心して調整しないと。