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鹿島詩穂(かしま しほ)はキーボードを叩く手を止めた。画面にはたくさんの名前の羅列がある。来場試験にパスした探索者全員の、魔法使いの素養を判断した記録だった。昨日は合格者ゼロ。残念だが、体力テストにパスする人間が日に10人程度なのだから珍しいことではない。そろそろ昼食にしようか、とぼんやり考えたところで脳裏に警報が鳴り響いた。
訓練場に併設された事務所の中、魔法使いの訓練の責任者である鹿島に与えられた個室である。訓練場の一角には魔法使いや罠解除師、治療術師が訓練するために人工的に高い力場を作り出している境内と呼ばれる場所があるのだが、そこよりもはるかに濃密な力の集中が目の前で起こっていた。
迷宮街で日々探索に励む術師たちは、地上ではその力を使うことができない。それは彼らの力の源泉が迷宮内に充満するエーテルと通称される物質だからである。彼らとは比較にならず高い能力を誇る鹿島だったがそのこと自体は変わらず、地上で奇跡の技を振るうためにはエーテルをどこからかもってこなければならなかった。実をいえば小さな火の海を生む魔法程度だったら精神力だけで必要なエーテルを集めることができる。しかしそれは大変な疲労をもたらすことだ。だから緊急時はエーテルを固形化して保存した触媒と呼ばれる物品を利用する。
そういった常識とはかけ離れたことが目の前で起きていた。迷宮内部よりもさらに濃密なエーテルがどこからともなく集められたのだから。それも一瞬で。
それがさらに凝縮され、なんらかの形をとり始めた。鹿島は右手をタイトスカートのポケットにさしこみ、中から黒光りする碁石を取り出した。硬質に光るそれは鹿島のマニキュアもあでやかな指先でこなごなに砕かれた。破片は地面に落ちるより早く気化し、むっとする感覚があたりを満たす。これで一度だけ術を使うことができる。脳裏に像を描いた。
ここが平地だったら強力な火の海を発生させるハデで確実な魔法を使うことができたものの、こんな部屋で使ったらスプリンクラーは当然作動し書類は燃えるか濡れるかし、徳永という男にこっぴどく起こられてしまう。それ以前に充満する炎で自分まで丸焼けになってしまうだろう。そこで選んだのは、一定範囲の生き物を窒息させる魔法だった。空気中のみならず肉体の中に蓄えられている酸素まで破壊してしまうために生き延びても全身に障害が残ってしまう禁術のひとつである。しかし侵入者を撃退してなおかつ周囲に被害を及ぼさないものはほかにない。四の五の言っていられる場合ではなかった。
「おひさしぶりね、詩穂」
のんびりとした声が人間の形をとりつつあるエーテルから漏れ、鹿島は全身を脱力させた。
「脅かさないでください、茜さん」
そう言って緊張を解く。言葉が終わる前に高密度のエーテルは物質化した。一人の人間の姿をとって。
40代後半の小太りの女性だった。地味だが上質なスーツに身を包んでいる。穏やかで愛嬌のある笑顔を浮かべていたが、それが不意にこわばった。
「やだ、わたし殺されるところだった?」
かすかに残るエーテルのありようから、鹿島が何をしようとしたのか悟ったのだった。さすが、と舌を巻いてしみじみと眺める。この中年女性の名前は笠置町茜(かさぎまち あかね)という。迷宮探索事業団の理事であり、おそらく地上で五指にはいるであろう魔法使いだった。
「いきなり飛んでこられたらこちらだって警戒いたします」
「え? 今朝メール送ったじゃない」
「そうでしたっけ? ・・・あら、今日チェックしてなかったわ。――まあそれはいいとし」
「よくないわよ」
「それはいいとして、今日はどういったご用件でしょうか? 隆盛さんがご一緒していらっしゃらないということは、私的なものですか?」
彼女の双子の娘が迷宮街に来ていたはずだ。授業参観だろうか。
「旦那は明日来る予定。私は用事がなかったから今日からきたの。――星野くんのレポートに関して」
なるほどと心の中で納得した。自衛隊員で探索者である星野幸樹(ほしの こうき)から先日報告書があげられたのだ。そこには第四層では迷宮に慣れていない自衛隊員では危険を察知できないことが記されていた。少しずつ探索してはインフラを整備して、という漸進的な探索が前提である以上自衛隊の協力は不可欠だったが、彼らが危険を察知できないとなるとその生存確率は著しく低くなる。血税で育て上げた貴重な人材を志願者と同じような消耗品とみなすわけにもいかず、であるなら彼らを危険から守る何らかの対策が必要なのだった。たとえば効率よく迷宮内部の空気を読むコツを教えることでもいいし、もっと厳重な警戒態勢を敷くのでもいい。とはいえ前者の方法は思い浮かばなかった。迷宮街には基本四職業の達人が常駐しているので鹿島を含んだその四名が自衛隊の護衛に加わるようにしようか、という相談が成されていたところだった。しかし理事たちは自分たちが乗り出すことに決めたらしい。
「いかがなさいますか?」
「ちょっとした仕掛けを作ろうと思ってね。自衛隊員だけじゃなく、普通の探索者の能力底上げにも役立つような訓練施設を迷宮内部にも作るつもりよ。地上に作るのは大変だからね。――うーん、毒気を抜いたり小さく吹雪を作ったりといった術を使える人間をリストアップしておいて。何人くらいいそう?」
挙げられた魔法の名前はかなり難易度の高いものだった。そこまで達しているのはリストアップするまでもなく数えられる程度だ。
「八部隊24人というところだと思います。あとは私と久米さん、洗馬さん」
「そしてうちの葵ね。25人・・・旦那もくわえればなんとかいけるかな。その連中に、来週水曜日に潜れるように調整しておけと連絡してください。これは命令で、報酬は一人25万円。できれば前二日は訓練も控えて気力を充実しておくようにって」
「25万! 私もいただけるんでしょうか?」
小太りの魔女は吹き出した。
「あなたには私の補助をしてもらうから、もう少し多くなるわよ。その代わりしんどくなるわ。覚悟して」