天気は曇りだったけど、なんとなく暖かくなる感じがしたので洗濯物を干した。ちなみに洗濯物は木賃宿に併設されているコインランドリーで洗濯するか、木賃宿のクリーニングに出すかを選べる。金銭感覚が麻痺してきたと昨日の日記に書いたけど、日々の支出に関する感覚は変わっておらず、相変わらずコインランドリーで洗濯して木賃宿の屋上に干すことにしている(穴のあいた靴下も自分で縫ってます)。探索者でそういうことを続ける人間は珍しいらしく、木賃宿で働いている高崎さんというおばさんにはしっかり名前を覚えられた。高崎さんは迷宮街の近所に住む主婦で、掃除や洗濯などをしてくださっている。みんなにおかみさんと呼ばれておりとりあえず誰も頭があがらない。ほっとする感じがする小太りのおばさんである。たまに息子さんも遊びにくる。息子さんは小学校五年生で、隆一くん。津差さんがお気に入りでぶつかったり乗っかったり蹴っ飛ばしたり、休みの日に津差さんを見かけると、セミみたいに隆一くんがくっついていることが多い。
午前中はストレッチと、翠と軽く打ち合うことですごした。午後はそのまま自転車でお散歩。目的地は青蓮院だ。翠はなんだか高そうな自転車を持っていて、俺の無印のマウンテンバイクをぐいぐい引き離していった。俺もいい自転車が欲しくなってきたな。翠の自転車は越谷さんに薦められて買った、20万円ほどの入門者用だということ。うーん、今使っている自転車にカゴをつけて、散歩用にいい自転車を買うかな。
青蓮院は京都市碁盤の東部、平安神宮の参道を南に下って少し歩いたところにある庭園で、門前の駐車場に立派な楠の老木が生えている。がらんと広い畳の間から眺める庭園は穏やかで、ここは観光のメッカというわけではないらしく、土日であっても二〜三時間も座っていたら必ず誰もいない時間がある。そこでぼんやりするとふっと身も心も軽くなるのが感じられるのだ。自分では慣れたつもりであっても、やっぱり迷宮街の毎日は緊張を呼ぶらしい。こうやって誰もいない場所にいたくなる。そう。ここには一人になりに来るのだ。
ということを翠には話し「ここで解散、お互い気が済んだら勝手に帰ろう」と取り決めて、抹茶をもらってそのままぼんやりしていた。二時間くらいだろうか。ぱらぱらと雨が降ったりして非常にいい時間だった。
帰ろうと思って出口に向かったら、庭を眺めながら放心しているように座っている翠に気づいた。そっとしておくことにする。そしてふっと、笠置町姉妹とはいったい何者なのかと考えた。
迷宮街に来てもうすぐ一ヶ月になる。俺の日記だけではほとんどの人間が問題なく探索を続けているように感じられるかもしれないけれど、実際はそうじゃない。幸い俺が親しくしている部隊では初日の恩田くんたちを除いて死者は出ていないけど、迷宮街を去っていく人間はこれまでもたくさん見ていた。彼らのことを書いていないのは、なんとなく危ういな、と感じられるから。俺にもそう感じられる人はまず間違いなく二度目の探索までに街の外に出て行く。たとえば津差さんの部隊や神崎さんの部隊でももう帰った方がいるのだ。それだけ過酷な状況で、俺たちの部隊でまだ脱落者が出ていないというのは奇跡とまではいかなくても、珍しいことだといえた。もっとも児島さんと常盤くんは第三層に降りる時点でグループを抜けることが決まっており、後釜の育成を笠置町姉妹と青柳さんが考えているのだが、彼らにしたところで許容できるリスクの水準が俺たちと違うと言うだけで探索自体に拒否を示しているわけではない。つまり、俺たちはまだだれもへこたれていない。
もちろん笠置町姉妹は第二層においてまだ無敵コマンドだし、その二人に選ばれた俺たちはみな第二期探索者の各職業では平均よりも上だと思う(少なくとも俺と青柳さんはそうだ)。そういう意味で感じている危険、緊張はほかの部隊とは比べ物にならないのだろうけれど、それでも俺がこうやって庭を眺めながらふっと意識を飛ばすと二時間経っているように完全に開放されてはいない。能力だけではなく精神的な強さまであの短時日に見抜いた二人の年下の娘、簡単に『家庭の事情』と表現するその成果のどれだけ大きなことか、と思うとくらくらする思いだ。自分だったら耐えられる自信がなく、幼いころからだから耐えられるのだとしても、あるときそのことで親を恨むだろう。しかし双子は屈託なくそれを受け入れている。だから漠然と別種の生物なのだと思っていた。
でも、少なくとも、庭を眺めてじっとしている背中は別種の生き物ではなく超人ですらなく、単なる二一才の娘でしかなかった。ふっと身じろぎした動きは、手の甲で目元をぬぐったようだった。泣いているのかもしれない。
取り決めを忘れたふりをして声をかけ、食事にでも連れて行こうかと一瞬思ったけれど、それはしなかった。俺は津差さんや青柳さんのような大人ではなくましてや神崎さんでもない。翠が一人でいることを望むのにそれ以上のことをしてやれる自信はなかった。一人で迷宮街に戻った。
戻ったモルグではなんとなく俺の場所になっているベッドの上に洗濯物がたたまれていた。そういえば雨が降っていたっけ。月曜日には忘れずに高崎さんにお礼を言おう。