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午前中で迷宮探索事業団の事務方ならびに計量部門の技術者たちとの挨拶を済ませ、後藤誠司(ごとう せいじ)は事務所の自分の椅子に深くもたれた。ぎ、と嫌な音がする。その音に眉をしかめてから室内を見回した。せいぜい一〇坪程度のその部屋が、世界にたった一つ地下世界の戦利品を買い取る事業を動かす拠点だと誰が信じるだろう。つつましいのは部屋の広さだけではなかった。確かにこの部屋は準備期間からあわせて二年間使われているのだが、それにしてもひどい事務器具のくたびれようだった。たった一人の事務OLである木島明子(きじま あきこ)に質問したところ、新しいオフィスを開くにあたりテンポスバスターズからすべて購入したらしい。耳を疑う思いだった。スタートの時点でそこまで強引に経費を削減するほどの覚悟がありながらどうしてこの高い買い取り価格を許しているのだろう?
そう! 意外だった! と朝一番で行われた前任者の榊原美樹(さかきばら よしき)との引き継ぎを思い出した。渡されたファイルは非常によくまとまっており、管理者と作成者のどちらも高い事務処理能力があることを示していた。それだけに、さっと目を通しただけでわかったのだ。自分たちが得るべき利益を迷宮探索事業団が搾取しているわけではない、という意外な事実が。後藤が想像(というより期待)していたのは『探索者からは安く買い叩き、自分たちには高く売りつける迷宮探索事業団』というやりやすい構図だった。しかしよくまとめられた帳簿類は、一次の交渉相手である迷宮探索事業団も死体買い上げというメインビジネスではほとんど利益をあげていない、少なくとも暴利をむさぼっているとはいえない状態を教えてくれた。この街が生み出す莫大な富はほとんどが探索者の懐に入っている。それを事業団が各施設で吸い上げているのかとも思ったが、食住は外注しておりしかもその値段も低く抑えられていた。事業団が独占している事業に武器防具の製造があったがそれは当然だろう。こんな特殊用品は専用の企業体を作らない限りどれだけの値段で売られるかわかったものではないし技術革新も望めない。
価値あるものには価値ある値段を――後藤の半生を通じて真理だったものが通じない街に少なからず動揺し、そして気が付いたら前任者は新しい任地に旅立っていった。逃げられた、という印象が強い。好きにおやりなさいと笑う顔には悔しさもねたましさもなく、やることはやった満足感と後藤に対する信頼(それはとても信じられない感情だが)があふれていた。何を考えているのか本当にわからない。
とりあえず椅子は買い換えよう。机や棚が古いことは気にならなかったが椅子だけは別だった。たかが四〜五万のものだからたいした問題にもならないだろう、と思った視界の端に湯呑みが置かれた。
「ありがとうございます、木島さん」
榊原と二人でこの街の買い取り事務を切り回していた女性は、当年で40歳くらいになるのだろうか。すこし痩せすぎだが快活そうな女性だった。ゆっくりした京都弁を聞く限りでは地元の方なのだろう。当面は師としていろいろ聞かねばならない相手、お茶を入れてもらうのは申し訳ない気がした。だから湯飲みを持ち上げてから断りを口に出した。これからは別に私の分は結構――あ、おいしい。
これからもできればお願いします、と頭を下げると笑顔でうなずかれた。話の端緒をつかんだ気がしてこの街について訊いてみた。この街ができるときの街の設計、建設の手配をしたのは誰だろう? 物流を整えたのは? 各外注企業の選別は? それらはすべて理事たちがしたのだろうか? 答えは、榊原さんですというものだった。それは半ば以上予想通りだった。
組織は時間とともにどうしても血流が悪くなるし、放置すればサイズと費用が増大するものだ。ゼロから打ち立てて二年間、現時点で事業団の経理がこれだけ健康であるということは二つのことを示していた。最初に立てたシステムが非常に完成度が高かったということがひとつで、もうひとつは権限と忍耐力のある人間が不断のメンテナンスを行っていることだ。メンテナンスは徳永という事業団の事務責任者がいればどうにかなるだろう。しかし最初の仕組みを作るのは、人間性と組織と経済に精通している人間が必要だった。もちろん理事がその稀有な人間だった可能性も当然ある(しかし、木曾の山奥で職業農家をしている人間ではその可能性は薄そうだった)が、しかし、卓抜した経済人が二人同じ場所にいた、というよりは榊原がすべてを設計したと考えるほうが順当だった。
何を考えているのか!
買い上げのシステムを調べたとき、うちの会社と迷宮街の絆は強そうだなと思った。榊原という人間の仕事を追っていくうちに、絶対にこの街で大きな存在感を持っているだろうと確信した。大きな存在感? とんでもない! この街の父親はまだ見ぬ理事ではなく徳永でもなく、榊原美樹だった。ではなぜ利益を取らない?
簡単だ。親だからこそ子供を甘やかしているのだ。
問題は、その「子供」が探索者なのか、探索事業なのかだが――。ちょっと石を投げてみるか。でも、どこに投げれば効果的に波紋が広がるかがわからない。今日から北酒場に入り浸ることにしよう。
「所長」
これまで課長代理という役職にしかついておらず、長と呼ばれても自分のことだとはわからなかった。もう一度呼ばれて気づき、別に後藤でかまわないと告げた。
「今日の夜からインタビューのアポイントがあるのですが」
「…・…初耳ですけど」
「榊原さんが受けたんですけど、新任の方がいいだろうということで。テレビ局の特番で一九時からです」
「いいですよ、別に家に早く帰ってもすることないし…・…テレビ局?」
「ええ、NHKです」
「探索者にも取材が入りました?」
「ええ」
そのリストは手に入らないか? と尋ねるとすぐに出してきてくれた。名前と簡単な説明文だった。後藤は一人一人をじっと読み込んでいった。これは、マスコミというある種の嗅覚を持った人間が目をつけた人間のリストなのだ。自分が運を天に任せて選ぶよりは、迷宮街での中心に近い場所にいるだろう。そしてその名前を見つけた。
お前だ、突破口は。にっと笑い、あわてて顔を温和につとめた。木島に怖がられたらえらいことになる。
お茶を飲み干してしまい、物足りない思いで湯飲みを見つめる。くすりという笑い声と、「もう一杯入れますね」と立ち上がって出て行く背中に感謝を込めて頭を下げた。