10:27

予想通りに常識を破られた。壁面への体重の預け方、突起のつかみ方、足のかけ方、鈴木秀美(すずき ひでみ)にはそれだけを手短に教えて登らせてみたら自分でも舌をまく安定で登っていった。あわてて後を追う。経験と手足の長さの違いで簡単に追いついたものの、これなら自分の登攀に専念できるようだった。先行は西野である程度壁面の状態をつかみ、鈴木が手がかり足がかりの選択に迷ったらアドバイスをする。登り始めて20分、すでに七メートルの高度を稼いでいた。もうじき第三層にはいる。恐れていた第三層の天井は、同じように大穴となって第二層とつながっていた。第一層から四層までをつらぬくたて穴ではないのか、という期待は当たったわけだ。
ここから地上に助けの電話をかけるという選択肢もあったが、それをするにせよせめて第二層まで登るのが現実的だった。第三層ではこの大穴の位置は地図に記載されていない未到達地区に分類されていたから、電話の設置されているところにたどり着くまでに数度の遭遇を覚悟しなければならなかったから。
「君はいったいどういう人間なんだ?」
理不尽な日本語だったが、それが自分たちの思いを正直に代弁する言葉だった。比較対象を第二期に絞ったとしても、もっとも実力ある罠解除師と呼ばれている大田憲(おおた けん)ですら、これまでに幾度も解除を失敗している。目の前の娘は本人がそれを吹聴しないものの、これまでたった一度しか失敗したことがなかった。その失敗すら第二層では強制移動の罠はないという先入観さえなければ起きなかったのではないだろうか。どんな状況でも100%という数字は異常だが、何事も極限下で起きるこの街ではそれはさらに珍しいことだった。
鈴木の顔にはもう自責の念は消えていた。若いからか明るい性格か、希望があってそれに対して努力している実感があれば強くいられる娘だった。私は、と言葉を選んだ。私は笠置町さんと同じような境遇なんです。
事業団理事の双子の娘である笠置町翠(かさぎまち みどり)と葵(あおい)とは西野も親しくしていた。第二期の探索者でありながら迷宮街すべてで考えても屈指の剣士と魔法使いのペアは、他の探索者と違いその能力を地下で高めたものではなかった。事業団理事夫婦に幼少の頃から鍛え上げられたのだという。超常の力を代々伝えていく家系――漫画の世界でもなければ存在が許されないそれを目の前に見たとき、その能力以外はあくまで普通の娘だった安堵感も手伝って西野は納得し、そして思ったのだ。他にもこういう男女がいるのだろうなと。何の事はない。それは自分の部隊にいたわけだ。
「翠さんは脇差での剣術と魔法を習ってますけど、私は小太刀と手裏剣術です。あとは、より重要科目として体術と径脈の知識」
よくわからないが、簡単に重要科目と表現した体術のレベルはこの登攀力を見ても想像がついた。壁面は少し斜めになり、壁に体重を預けられるようになっている。足を止めて上空を見上げた。ヘッドライトの届く限りでは、オーバーハングはないようだった。これなら想像よりも早く第一層に到着できるはずだ。