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初日に挨拶した若い娘が謝りながら飛び込んできた。そして自分の姿を見て立ちすくんだ。確か三峰えりか(みつみね えりか)という名前だったはずだ。社内名簿のファイルによれば二五才、神戸の大学院を卒業してすぐ技術者として入社し、昨年の探索開始からここに勤めている。事務の木島の意見を信じるならば、技術的な問題に関して一番発言力があるのはこの娘なのだそうだ。だったら、と思う。それが事実なら相応のポジションと報酬を用意するべきなのだが――まだまだ旧態依然としたところのある会社、さらに前任者はそのあたりでドラスティックな対応をとっていなかったらしく、若い技術者は自分の価値も知らずに直立不動でかしこまっていた。後藤は苦笑して、お茶を飲んでいるだけだから気にしないでと断り朝の挨拶をした。三峰はそれで安心したように迷宮に潜る探索者たちが集まる大部屋に出て行った。ふーん、と見直す。自分に遅刻を見られてその前にかしこまってみせても、それは社内の階級に従っただけのことのようだ。個人としては自分を(その顔も)なんら恐れてはいないのだ。図太いのか、仕事に自信があるのか。後者だろう――脳裏のコルクボードに『三峰えりかに能力相応の処遇を』と書いた紙を貼り止めた。
ここは迷宮街の北端にある迷宮への入り口だった。入り口をすっぽり囲うように分厚いコンクリートの壁がめぐらされ、それに付随する形で陸上自衛隊の警備室と探索者用のシャワー室(あくまで返り血を流すためだけのもので、ここで普段着に着替えることは許されていなかった)、各金融機関のATMが集められた一室、探索者が集合するための大部屋、そして自分の商社の計量室がしつらえられていた。探索者たちは地上に上がるとここで怪物の死体を収めた容器(その形状からシェーカーと呼ばれていた)を買取りの技術者に預け、計量作業中に身体の汚れを落とすのだった。
もう10時半になろうとしている時刻だったが、大広間ではまだ数部隊がミーティングをしていた。するするとそこを通り抜ける三峰にいくつもの挨拶の声があがる。小柄な身体を白衣に包み、ショートカットにメガネで穏やかな微笑という彼女は探索者たちからある程度の人気を得ているらしい。
彼女は真剣な表情でホワイトボードの本日の探索者の名前をメモしていた。軽量室に戻ってきた彼女に「何のために」「何を」メモしたのか訊いてみた。
「抽出した成分も、保存方法次第で劣化してしまうんです。地下にあるあいだは不思議と純度が高いんですけど、それ以降はマイナス5度〜10度がベストとか、逆に25度〜30度だと劣化が遅いとか色々ありまして。で、どの部隊がどれだけ潜っているかによって今日持ち込まれる成分量を想像しておいてある程度の保存方針を決めておかないと、価値のある成分に適した保存場所を割り当てられなくなっちゃいますからね」
なるほど、とうなずいた。他の技術者がそれをしないのは、おそらく彼らには部隊ごとの進度が頭に入っていないからだろう。目の前の娘は仕事を安心して任せられるほど利発で、なにより探索者の情報も期待できるということがわかった。たとえば今日はどんな感じ? と話の流れで聞いてみたら、今日は暇ですよとの返事だった。第一期の探索者で今日が潜るローテーションになっている部隊のうち有力ないくつかが、何でもあるアルバイトの送別会に出席するとかで、今日は第二〜第三層程度で切り上げるのだそうだ。今日は楽だから遅刻したってのはアリですか? との問いに苦笑した。娘はぺろりと舌を出すと、白衣を翻して立ち去った。
アリもなにも、すぐに遅刻ごとき気に病まないような位置についてもらう。心の中でつぶやいた。