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今回も簡単にねじ伏せられると江副文雄(えぞえ ふみお)は思っていた。最後に会ったときその男はあくまで平身低頭しており、意識不明の友人を心配すると同時にそれよりも強く美奈子の死に罪悪感を感じていたのだから。だから、奴の通夜に出席したのはあくまで念押しの意味だった。間違いなく関係者でもあることだし。しかし悔やみを告げた後で賠償金の支払いを同じように続けるように確認したところ返答は思いもよらないものだった。まったく自然に断られたのだ。
江副は愕然とし、そして怒りを感じた。うちの娘は殺されたんだ。奴が死のうがそれは代わりはない。賠償金は断固として払ってもらう。それが人の道ではないのか。男はまったく動じず(その時点でもう別人を見る思いだった)、お支払いはしないつもりです。どんな法律でも私に請求することはできないはずですがと言った。
たたみかけようとして呑みこんだ唾がのどの奥でひきつったような声をあげる。その瞬間、江副は自分がおびえていることを知った。友人たちはよく言ったものだ。迷宮街で毎日切りあいをしているなんてヤクザよりたちが悪いやつらではないのかと。そんな連中とよく交渉などできるものだと。交渉らしい交渉をまったくしなかったことを隠して江副は誇ったものだった。なにしろ自分は美奈子を失ったんだ。奴も意識不明だからといって責任を取らずにいいはずがない。事故を起こすような人間を許していた周りの奴らにも責任があるはずだ。四の五の言わせない。
若い男の形をした現実はそんな虚勢をふきとばしてしまった。立ち尽くす江副に一礼すると児島貴(こじま たかし)はその場を立ち去った。最後にようやく、それでは美奈子がかわいそうだと搾り出すことができた。児島は立ち止まり振り向いた。
「お嬢さんにはあくまでお悔やみを。それでも私が賠償金をお支払いしたのはお嬢さんのためではありません。友人が意識を回復した際に山のような借金があっては苦労するだろうと思ったからです。友人がもう目を覚まさない以上それは必要ありません。失礼します」
その瞳には何の感情も読み取れず、江副は悟らされた。この男にとって死は無価値なのだと。死者とそれをとりまく人間の想いすべてがこの人間には無価値なのだと。事故から八ヶ月という月日が、通帳に振り込まれる金額を悲しみを和らげるものから新築の住宅ローン返済の一要素に変えたように、たった一ヶ月の迷宮街での生活はこの男の何かを変えてしまったのだ。自分の知っている人間たちとは少し違う何かに。
江副は全身が安堵で温かくなるのを感じた。賠償金を当てにしていたローン返済、友人達へ散々誇って見せた挙句の無様さ、そういったすべてのものを一時忘れていまは児島が去ってくれたことが嬉しかった。