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真壁啓一(まかべ けいいち)を笑顔で見送ってから、神田絵美(かんだ えみ)は真城雪(ましろ ゆき)の猪口に日本酒を注いだ。迷宮街の女帝はすでに相当酔っており真っ赤な顔でにこにこと自分を見つめている。なんだってわざわざ引っ掻き回すようなことを言うかねー、とため息と一緒につぶやくと真城は一息に猪口を空けた。私はあの二人が好きだからね。
「二人とも今ならまだ笑ってこの街を出て行けるから。きっかけがあるところから片付けたいじゃない」
それに、顔も見たことのない東京の誰かよりはいつも可愛がってる女の子の恋を応援したいもんだよとつぶやく。神田もそれには同感だった。
「私はあまり洋服を選ばないからわからないけど・・・そういうもんなの?」
真城は年下の男にこう言ったのだった。お前さんは東京の彼女が大好きなんだろう。それは見てりゃわかる。これまでのあたしの度重なる誘惑にも負けないんだから(そこで神田と真壁は同時に吹き出した。およそ真壁を扱う態度に誘惑が混じっているとは思えなかったからだ)。でもね、あの子にとってはお前がいちばんお似合いなんだよ。
「あたしはこれまで何百着も服を買ってきた。そのうちの九九.九%はもちろん自分が気にいって自分に似合うから買った服さ。でもね、ほんのたまにだけど、ああ、この服は多分世界であたしがいちばん似合う、っていうのに出会うもんなのよ。それはどっちかというと自分が着たいものとは違うんだけど、でもそういう服がいちばん愛着感じるし、着てて安心できるんだなあ。あんたにとってのあの子はそんな服だよ」
いちばんて、と真壁は苦笑した。彼はまだ2才。これからの人生はこれまでの人生の数倍の長さであり行動範囲は数十倍の広さを持っている。数え切れないこれからの可能性を考えればおさおさ「いちばん」など言えないことをよく知っているのだろう。その表情に割り箸を立てて見せた。
「お前ならこれからいくらでも今の彼女やあの子よりもいい女と出会うけど、あの子がお前以上に向いている人間と出会うことは、たぶんもうない。それはなによりあの子の性格だけど、まあ可哀想な生い立ちってのもある」
だからって、と抗議する声は少しずつ警戒心を強めてきたからだろう。傍で聞いていた神田が意外に思ったように、彼もおそらく単なるおふざけだと思っていたのだ。だが思いのほか女帝は真剣だった。
だからって、今考えられる最高の女を逃す選択肢は俺にはありませんよ。
わかるかもしれないし、わからないかもしれない。どっちにしろあの子はまだお前のことどうとも思っていないだろうし。まあこういう意見もあるって覚えときな。穏やかになった顔はその話の終結を宣言していた。真壁はその唐突さに苦笑して他の話題を始めた・・・。
ふっと意識を現実に戻す。そしてとろんとした目をしている女に尋ねた。そういえば鈴木秀美(すずき ひでみ)はどうしているのか、と。女帝は表情を曇らせた。ずっと閉じこもっている、と簡単な答えだった。
「一度行ってみたんだけどね。お茶も出してくれたしきちんと受け答えしてた。でも翳は晴れてないな」
どういう状態なのか容易に想像できた。実感できたと言ってもいい。彼女もまた何人も親しい人間を失っているのだから。でも、と思う。面白いもの見たさで自分の意志でやってきた自分がそうやって瞳に翳を宿すのは自業自得かもしれない。だが家庭の事情でやってきたまだ18才の娘(なんと! 自分と干支が一緒なのだ! 一気に老け込んだような気がする)となるとまた違う痛ましさを産むのだった。
「そっか、この街に縛られたらもう遅いよね」ぽつりとつぶやく。
「あの子たちは早いところこの街から出て行ってもらいたいね。無邪気に笑っていられるうちに」
突っ伏したショートカットから寝息が聞こえる。そっとその頭をなでた。