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後藤が勤める会社は商社だったし、何しろ前代未聞の分野だったので製品抽出に適した研究機関はもっていなかった。だから迷宮出入り口に併設されたそれはこの街の構想ができあがった一昨年の冬から急遽、国内各研究機関から人員と機材を集めるかたちで成立したあばら家のようなものである。その割には問題なく機能してきたのは、なんといっても予想される利益が大きかったために初期投資を大きくつぎ込めためだ。開設当時にアメリカの科学雑誌に掲載された紹介文を読む限りでは前任者の思い切りと人物鑑定眼の卓抜なことがうかがえた。とはいえ集められた各人はあくまで寄せ集めでしかなく、迷宮内部に特化した研究を深めていく意気には欠けると感じることがしばしばあった。その観点でいえば、迷宮内部の研究をすることを半ば予想しつつやってきた昨年度から今年度の入社組こそが会社として期待すべき人材たちなのだった。
その中でも、と後藤誠司は目の前に座っているジャージ姿の女性を眺めた。三峰えりか(みつみね えりか)はほとんどが大学の化学系学科を卒業しただけの技術者たちのなかできちんと大学院を修士までおさめ、この街に来るために博士をあきらめた俊秀だった。年下の技術者たちをよく指導し既存の研究員たちにも一目置かれている。
「休みのところ呼び出してしまってすまない。言ってくれれば出勤日でよかったんだけど」
いえ別に暇ですから、と笑った顔には化粧気がない。聞けば彼からの電話が入るまでジョギングをしていたし、訓練場から商社の出張所まで走ってきたのだという。そして興味津々の態でテストはどうだったかと訊いてきた。変わり者の新所長がこれまで三度探索者の体力テストを受けていることはよく知られていた。最後の休憩が終わったあと、とうとう立てなくて脱落したと説明すると、お疲れ様でしたと微笑んだ。彼女もそのうち試験を受けようと思っているのだという。
「どうして?」
当然の疑問は覇気のある瞳に迎え撃たれた。もっと地下のことを調べてみたいんです。そのためにはまず地下に行かなくちゃ。
「だってこの時代に魔法だなんてあるわけないじゃないですか」
この街でそれを駆使して戦っている人間を一年半見つづけてなお断固とした物言いだった。念じただけで火がついたり傷が治ったりなんて、もうね、アホじゃないかと。からくりは絶対にあるはずなんです。
「話を聞くと、いろんなイメージを描くんだそうです。それだけで火がついたり眠くなったり、とても信じられません。でも実際そうしている。この街が私に対する壮大なドッキリでもない限り事実ですよね。だったら物理的な原因があるはずです」
探索者の魔法使いに頼み込み、母校の実験室で同じようにイメージを描いてもらった。結果は変化なしだった。ありとあらゆるツテをたどりいろいろな研究室にその女性を連れて行った。どこでも判別できず、もちろん炎など生まれず。しかし、実際に三峰もビデオ映像を見たことがあるが、地下においては突如として火の海が生まれるのだった。だからといってすなわち超自然の力の存在を意味することにはならない。何かしらの物理的な変化は必ず起きているのだ。そして地下にあってはそれが物理的に火の海を呼び起こしている。ただそれをキャッチするだけの検査ができないだけだ。もっと調べたいと思い、自分の無力を痛感した。
「今の日本の設備でダメなら海外の最新のものを使えばいいんです。そのためにはもっと情報を発信してみんながお金や機材を出そうと思うようにしないといけません。私じゃダメならもっと優秀な人を招けばいいんです。そのためにはそういう人たちに居心地のいい環境を作らないといけません」
後藤は苦笑した。
「なるほど、科学者は商人とは違うな――その考え方はうちの会社の利益に反すると思わないか?」
彼女の思うままに機材を集め人員を招く金はさすがに現在の利益ベースでは捻出できない。それでもあえてするのなら、会社が迷宮に対して握っている特権的な立場を(少なくとも部分的には)開放しなければならない。彼女は知らないことだが、そうするべきだというコメントは非公式とはいえ世界各国から毎分のように寄せられているのだ。だからこそ会社はその特権を手放そうとはしない。そんな動きはどうしてもつぶそうとするはずだった。
「でも、これは会社の利益とかいうレベルの問題じゃないはずです!」
まあ落ち着け、と一瞬だけ真顔になった。覇気あるとはいえまだ二五才の娘はその顔にしゅんとしてうなだれた。
「これから先はオフレコだ――早くて二年後、遅くても五年後にはうちを辞めてもらうことになると思う」
娘はきょとんとして、続いて傷ついた顔になった。「クビですか?」
後藤は苦笑した。
「いや、それはノーだ。そしてもう一つノーといえば、君の現状認識だな。君は、うちだけがこの問題に携わろうとしているように表現したが実際は違う。世界の一流の科学者の大半は迷宮内部を調べたくてうずうずしているんだ。それを感じることはないか?」
若い科学者はすぐにうなずいた。他の研究機関に機材を借りにいったときに当然そこの人間と触れ合っているのだ。
「ところが、いろいろなものが複雑に絡み合った結果うちが特権的な位置を占めている。当座の利益を守るという理由でな。でも周囲はそれを許さない。会社はいまその特権を守るために必死になっている。だから君もまだその考えを口に出すな。最悪殺されかねないぞ」
まさか、と笑う顔に、もう一度真顔になってみせた。笑顔は凍りつき視線が泳いだ。
「人間は一回の食事のために人を殺すし、企業はもっと軽いもののために人を殺させるということを覚えておくように」
はい、と唾を飲み込む顔にうなずいた。
「地下にいるのが知能の低い怪物だけだったら別にかまわなかった。けれど明らかに人類以外の文明が地下五〇メートル以下にあるような痕跡が見られている。これはうちだけで独占していいもんじゃない」
生物学、社会科学、文化人類学、あるいは宗教学や哲学? どの分野になるのか三峰も後藤もわからない。しかしその重要性は二人にも十分に理解できる。その層まで研究者を下ろすことも、死体をそのまま地上に持ってくることを依頼しているわけでもないための「研究不可能」という現実を口実にその重要性には目をつぶってきたが、いつまでも無視していい問題ではないのは明らかだった。とはいえ、それだけ広範囲にわたる研究をする組織も資金も人員もこの街にはないし一社では用意できないものだった。
「ときに、青色LEDの件は知っているか?」
三峰は虚を突かれてうなずいた。これまで赤色や黄色では実現していた発光ダイオード(LED)を青色でも実現する発明をした研究者が、会社がそれによってあげた利益に対して報酬が少ないとして訴訟を起こした事件だった。確か、来年二月あたりに東京地裁の判決が下されるはずだ。
「まさか要求どおりの200億なんて馬鹿な結果が出るとも思えないが、あれは企業と研究者との関係に激震をもたらすだろう――その機を利用して、うちの研究者達に、外部から集めた人間を加えて包括的な研究団体として独立させる流れに持っていきたいと思っている。この街に特化した研究財団でもいいし、京大や京産大あたりの複数の研究室を母体にしてもいいし。二年から五年、その間で優秀で説得力のある研究者のリストアップとコネクション作りをお願いしたいのだが」
三峰はすっかり混乱したようだった。おそるおそるといった風に声をあげる。
「いくつか質問いいですか?」
一つ目は200億円は馬鹿げてますかというものだった。なるほど科学者は商人じゃないなともう一度苦笑して、馬鹿げていると即答した。発明だけで金が稼げるわけじゃない。それを商品にし、販路を確保し、値段を折衝し、製造して輸送するありとあらゆる手はずを整えてはじめて発明は金になるのだ。それを、単純に何百億円もうかったから払えというのでは商業原理を無視すること甚だしかった。売り方を知らずにすばらしい野菜を腐らせている農家は世界中にいるものだ。金を稼ぐには製造から先のプロセスもまた必要で、その研究員はそこにはまったく貢献していなかった。200億円は多めにふっかけただけだろう。
二つ目はどうして企業と研究者との関係が変わるのかというものだ。それも答えは簡単だった。雇用時の取り決めを無視して事後に追加の報酬を請求するというのは商売の世界では言語道断の行為である。契約書類以外のものを後付けで要求するビジネスマンなど、少なくともまともな商業道徳の世界ではどれだけ捜しても見つからないだろう。あの訴訟で企業体は研究者というものが本質的に話の通じない生き物だと気づいたはずだ。それを裁判所がねじ伏せるのならばいい。しかし世論を見ても企業側にある程度以上の支払いは命じられるだろう。契約して費用が計算できていたはずの社員が、ある日突然巨大な報酬を請求してそれを法律が保証する――悪夢としか思えないそれが現実になったとき、果たしてこれまでどおり研究者を養えるか。それに死蔵特許の問題もあった。
「死蔵特許?」
たとえばある会社がタイヤ製造のラインを数十億円かけて新設したとする。もし、その翌日にそこで雇っている研究者がそのタイヤをはるかに超える良質の新タイヤを開発した時、会社はその特許をどうするだろうか? 早々に特許をとり他社がそれを販売できないようにしてから新設したラインの設備投資が回収できるまでは既存のタイヤを製造販売するはずだ。問題なのはその新タイヤの特許だった。会社としては単に眠らせておくだけのものに高い金を支払う気にはなれないだろう。しかし発明者は、他社にその特許を売り渡せば自分の発明が実用化される上に莫大な特許料が入ると知っているのだ。誘惑を退けられるだろうか? そこで楽観的になれる人間はビジネスには向いていない。そして、その誘惑を実行しようとして世論を巻き込み裁判沙汰になったときの結果は火を見るより明らかだった。
判決次第では、優秀な研究者は利益の源泉であると同時に危険な火種にもなりうると企業は認識するだろう。早々に研究者を手放すことはないだろうが、大学などの独立した研究機関から競争原理にのっとって成果を買い取るという形態に緩やかに推移していくはずだ。そう後藤は考えていた。
当然その考えにはいまは必死になって特権を守っている首脳陣も到達するだろう。なにしろ明日世紀の発見が起きてもおかしくない迷宮内部だから、扱いを一歩間違えれば第二第三の青色LED訴訟が生まれない保証はないのだ。後藤はそこを突くつもりだった。何しろ会社にとっての火薬庫は担当者である後藤にとっての火薬庫でもある。研究機関の切り離しは必須で急務だった。そして、その経緯で沢山の価値あるコネクションが生まれるだろう。それは後藤には魅力的なものである。
「最後の質問ですけど、どうして私なんですか?」
自分には人を見る目も優れた頭脳も人徳も組織力もない。社会人になってまだ二年目だ。ただ、ここに来れば面白そうだからという理由で面接を受けただけで、とても期待通りのことが勤まるとは思えない。
「知りたい、研究したいという熱意だけで探索者になろうと思うような人間以上に適任者がいると思うか?」
三峰はしばらく考えて、よく考えてみますと頭を下げた。