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ぼんやりとコーヒーの表面を眺めていたら、視界の端っこにすっとピーナッツの皿が差し出された。見上げるとバーテンの小川肇(おがわ はじめ)がこちらを眺めていた。手にはドリンクバイキングのマグカップをもっている。甘いにおいはココアだろうか。「遠慮しないで、昨日の残りだから」と笑ってから、隣りに、椅子ではなくテーブルにちょこんと腰掛けた男に神田絵美(かんだ えみ)は微笑んだ。このバーテンとは年が近いこともあって親しくしている。
今年はもうおしまい? という問いに神田はうなずいた。本当は今日までの予定だったが、昨日他グループへの救助部隊に参加した戦士が第三層で思わぬ被害を受け、ツナギの補強が間に合わなかったためだ。明日からは韓国旅行の予定だったので当面暇をつぶせるような大工仕事もない。図書館の本はすべて返してしまっている。リーダーの女戦士は朝からおめかしして出かけていった。とても暇だった。
テーブルの上に突っ伏して、両手を思い切り伸ばす。隣りに座る小川が肩甲骨のあたりを親指で押し始めた。コリがほぐされる感覚に喉の奥でうなった。
「さすがに年末で少し人が少なくなってきているね」
突っ伏したままうなずく。去年の正月はこの街にいたが、普段はお祭り騒ぎの好きなこの街でも大晦日は地味に過ごして意外に思ったものだった。だから今年は焼肉を食べることにしたのだ。バーテンという職業に勝手に抱いていたイメージに反してごつく太い指が背骨と肩甲骨の間に重さを与えてくる。あまりの心地よさに脱力しながら、みんな実家に帰っているわけじゃないんだけどねと答えた。少なくとも第一期の探索者たちで里帰りをする人間はごく少数派だった。
そうなんだ? と意外そうな声。それはそうだろう。どんなに無精な人間でも実家があれば正月くらいはと呼ばれるものだし、たまにはいいだろうと思うものだ。でもそれはこの街には当てはまらなかった。
「半年から一年くらいかな・・・家族が疲れてくるんだよね」
疲れる? いぶかしげな問いに顔をあげ、指圧が上手なバーテンの顔をみつめた。
「うん。怒られる内容が変わってくるの。最初のうちは、なんでそんなに危険なことをするんだって怒られるのね。私の身体を気遣ってくれるのよ。私も申し訳ないな、心配かけてるなって。でもそのうち、親不孝だって怒られるようになるのよ。両親をこんなに心配させてどういうつもりだって。最初の頃は、頑張るから大丈夫! って笑えば済むんだけど、さすがに親不孝呼ばわりされちゃねえ・・・」
ふっと思い出したのは父親の顔。私の人生なんだから好きにさせてよ。神田にとっては――口調は厳しくなってしまったが――当然の主張だったその言葉への返答は、勘当という小説の中でしか触れたことのなかった二文字だった。あきれ果て、涙が出てきてその夜のうちに実家から出て行った。「荷物は全部処分して」と書置きだけ残して。それからまったく家族とは話していない。
テーブルに腰掛けながらこちら側の右手だけで指圧してくれていた男はふっと彼女に覆い被さるようだった。反射的に緊張すると、左手がそっと頭を伏せさせた。右親指が首の付け根に置かれる。自分の肩の抵抗の強さに驚く思いだった。こんなに力が入っていたのか?
数分後、お疲れ様と肩を叩かれた。神田は起き上がり両肩を回してみた。驚くほど軽く動く。
ありがとうと微笑んでピーナッツを一つつまんだ。