北酒場

 21:05

いちばん話したい相手は、一番話したいからこそ長くかかると予想ができたために後回しにしていた。その結果がこれである。笠置町翠(かさぎまち みどり)は微妙に騒ぎの中心からずれたところですうすうと寝息を立てている。 その隣に真壁は腰掛けた。おーい…

 20:12

あ、と視線を移して思った。隅のほうのテーブルで食事を取っている男性、あれは。 話したいな。しかし親しい相手でもないし。そう思っていると近くを北酒場のウェイトレスが通りがかった。手には刺身の盛り合わせ。それはどこの? と尋ねるとあなたたちのと…

 19:35

もうアルコールはいいやと向かったドリンクバイキングのスペースには黒田聡(くろだ さとし)の姿があった。彼はパーティーには参加していなかった。もともとそれほど親しく話をしたわけではなかったし、離れた場所に席を取る彼の隣には明らかに探索者ではな…

 19:15

トイレから戻って騒乱の一角を俯瞰すると、最大級の騒音を発してもおかしくない人間が端のほうでぽつんと座っていた。真壁は手近なテーブルからパエリヤを取り上げ、その前にどかんと置く。ご注文の品です。真城雪(ましろ ゆき)はその言葉に微笑む。真壁は…

 18:40

顔を寄せてきた笠置町葵(かさぎまち あおい)は首筋までがもう真っ赤に染まっていた。普段はゆるくウェーブのかかった髪を今はまとめあげ、ポニーテールにしている。姉とは違い色を抜いていない烏羽玉の後れ毛が妖艶に揺れた。ふっと視線の先には星野幸樹(…

 18:30

その顔色を見て、真壁はいかん、と思った。首筋まで真っ赤な児島貴(こじま たかし)はもうすぐ人語を理解しない状態になり、そして常識を理解しない行動をするようになる。 「いろいろありがとうございました」テーブルに身を乗り出して児島に怒鳴った。隣…

 18:22

笠置町葵(かさぎまち あおい)が席を立った隙にその席を奪った。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は隣にやってきた真壁啓一(まかべ けいいち)が笑顔とともに差し出すコップにビール瓶を傾ける。 「どうでした? 今日潜ってみて」 そうだな、と津差は何…

 19:44

ジョッキがぶつかる音は常よりも大きく思えたが、常盤浩介(ときわ こうすけ)の心のうちには納得している部分もある。四角いテーブルの一角を占めた四人は四人とも目の前で激戦をたっぷりと見せつけられたのだから。うち二人、青柳誠真(あおやぎ せいしん…

 21:21

何度目かの深呼吸。それでも指先の震えはとまらない。伏せた視線の先に組まれたそれをじっと見つめるそぶりで拒絶しておきながら、肌は外界のことを懸命に探っていた。ちらちらと視線が送られてくることを感じる。そのたびに心が痛む。その視線、おそらく心…

 23:02

北酒場の一隅、長方形の卓が並ぶ個所で目当ての二人を見つけた。部隊の仲間の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)はすぐに自分に気づいたらしく、ジョッキを持つ手を上げた。その隣りでは姉の翠がぐったりと突っ伏している。笠置町葵(かさぎまち あおい…

 19:07

その衝撃よりもその音が、その音よりもその光景がもたらす驚きが北酒場をしんと静まり返らせた。まさか――。皿を運ぶもの、酒をつくるもの、食事をするもの、ジョッキを傾けるもの、その場にいる全てが一様に同じ思いを抱き目を疑ったはずだ。まさか、真城雪…

 10:23

ぼんやりとコーヒーの表面を眺めていたら、視界の端っこにすっとピーナッツの皿が差し出された。見上げるとバーテンの小川肇(おがわ はじめ)がこちらを眺めていた。手にはドリンクバイキングのマグカップをもっている。甘いにおいはココアだろうか。「遠慮…

 20:32

「あ、また転んだ」 北酒場には時ならぬ特設リングが出来上がっていた。その中央で行われている見世物を眺めながら落合香奈(おちあい かな)は呟いた。派手な音と一緒に歓声が沸きあがる。いま転んだのは高田まり子(たかだ まりこ)の部隊の前衛で、神足燎…

 18:20

朝会の列で最後尾を譲ったことがなかった。小学校に入学した時点で143センチ、中学校入学時には176センチ、中学生活で192センチまで伸び、あとは大学までかけて現在の203センチになりそこで止まった(正直ほっとした)。そんな珍しい人生を過ごしていた津差…

 9:11

過去、71人のベトナム戦争従軍者を取材したことがあったがその際に強く感じたことは彼ら戦争経験者は一様にそのことに関して口が重くなる傾向があるという事実だった。ありもしない戦争経験(それは映画のあらすじに酷似していた)を自分の記憶として吹聴し…

 23:17

真壁啓一(まかべ けいいち)を笑顔で見送ってから、神田絵美(かんだ えみ)は真城雪(ましろ ゆき)の猪口に日本酒を注いだ。迷宮街の女帝はすでに相当酔っており真っ赤な顔でにこにこと自分を見つめている。なんだってわざわざ引っ掻き回すようなことを言…

 19:17

思っていたよりも、と巴麻美(ともえ あさみ)は目の前の夫、後藤誠司(ごとう せいじ)に感想を告げた。夫といってもまだ籍は入れていない。麻美の両親が古風なため(後藤は若い頃に両親とも死別していた)に、籍を入れるのは式が終わったあとだと譲らない…

 21:40

知り合いが宴会でもしていないかな、と思って円テーブルのスペースを訪ねた。予想通りに「真壁!」と声がする。真城雪(ましろ ゆき)がジョッキを掲げて呼び寄せていた。珍しいことに同席しているのは普段の仲間たちではない。現時点で第四層に到達している…

 19:22

お目当ての若いバーテンは東京に行っているという。少し残念に思いながら、強めのスコッチをダブルで頼んだ。もともと団体で騒ぐことが性に合わない津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は、最近はもっぱらバーカウンターで一人で飲むことを好んでいた。 「お…

 16:35

彼を目の前にして逃げ出した弱さを憎んだから、二日後、彼の仲間たちが武器防具の修繕を頼みにきたとき、小林桂(こばやし かつら)はこちらから声をかけた。西野太一(にしの たいち)――あの晩紹介された年長の男――は複雑な表情を見せて言った。「なんだか…

 19:12

乾杯をした時点では確かに二人だった。しかし一五分後には差し向かいのテーブルから円テーブルに移り、五人が腰掛けていた。 神田絵美(かんだ えみ)が製造に携わったログハウス風犬小屋も本日無事完成し、手伝い半分話し相手半分で見物していた小林桂(こ…

 19:05

北酒場内部を大別すると六つに分けられる。ひとつは六〜十人座れる丸テーブルが並ぶ集団用の飲食スペース、二つ目は八人がけのテーブルが並ぶ個人用の食事スペース、三つ目はバーカウンター、四つ目はパーティーなどを行うためのホール、五つ目はオープンテ…

 15:20

ここ三日の晴天で蓄えられた地熱が陽炎となってたちのぼるかのようだった。北酒場に併設されているオープンカフェは、そのお陰で一一月の下旬とは思えない快適さを与えてくれていた。目の前にはホットココアと苺のミルフィーユ。織田彩(おりた あや)は幸せ…

 22:10

一晩三千円を支払えばシャワー付の個室が借りられる。今日の収入は六千円と少しだから実際にはそんな余裕はないのだが、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は個室を借りることにした。今日が初陣で三度遭遇し、彼はハト派のパーティーを組んでいるので一度は…