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常盤浩介(ときわ こうすけ)は、読んでいた文庫本から視線を上げた。目の前には白衣を着た女性が一心に書き物をしている。さきほどまで隣接する製品の抽出ブースにこもっていたから、検査結果を整理しているのだろうか。ここは迷宮の出口を囲むように建てられた建物の一室だった。普段は事業団の職員がつめているが、現在は探索者の有志が代わりに管理している。管理、といっても単に常駐し、化け物が登ってくるのを防いだり暇なら練り歩きに降りるだけなのだが。今日詰めている探索者は七人だった。前衛が三人と治療術師が一人、魔法使いが一人、罠解除師が一人、そして常盤である。常盤以外の六人は今部隊を組んで地下に降りていた。第一層を適当にうろついて怪物たちへの示威行動を行っている。
こと戦闘においてそれほど貢献できない罠解除師である常盤が詰め所にいるわけは、その留守を守るためだ。示威部隊の隙をついて怪物が階段を登って来たとしたらそれはサイレンの音を詰め所に響かせる。すると銃器を持った自衛隊員が階段途中で拳銃を構え、発射の指示は常盤が行うのだった。罠解除師である常盤は怪物の所在を視覚ではなくエーテルの様子で掴むことができ、有効射程ちょうどでの発射指示が可能だった。
まあ、とショートカットの頭を眺めながら思う。去年も出てきたことはなかったらしいし、何事もないだろう・・・。それよりもだ、と目の前の女性に話し掛けるタイミングをうかがっていた。小柄な女性――三峰えりか(みつみね えりか)という成分抽出の研究員がシャープペンシルを置いて首をぐきりと動かした。
「あ、あの」
緊張のあまりか声が上ずる。三峰はびっくりした顔でこちらを見つめ、吹き出した。
「うん、なんですか?」
「三峰さんて、もしかして高槻秀彦教授の下にいたことありませんか?」
彼女は目を見開いた。
「うん、そうだけど・・・。どうしてわかったの?」
やっぱり! と常盤はせきを切ったように話し出した。俺も高槻ゼミにいたんです。ここに来るために学校を辞めちゃったんですけど。たんぱく質の電気抵抗に関する去年の論文を読ませてもらいました。他がドクターばかりなのに、たった一人マスターで協力者に名前が載っているのはすごいです。三峰先輩、伝説の人なんですよ。サインください。
まあ落ち着けと憧れの先輩が両手を上げて、後輩は我にかえった。先輩は懐かしそうに常盤をじっとみつめた。自分の真っ赤な髪の毛にも怖気づいてはいないようだった。
「高槻ゼミなんだ? 懐かしいなあ。先生はお元気?」
先日東京に帰ったときにはお元気でした、と答えると微笑んだ。そしていぶかしげな顔をする。
「でも、あなたと会ったことないよね。去年までなら学部生にも知り合いはいたんだけど。すれ違いだったかな?」
そうです、と常盤はうなずいた。そのゼミ室に顔を出し始めたのが去年の十月の基礎演習がきっかけで、三峰が就職したのはその年の四月だった。
でもどうしてドクターにならずにここに来たんですか? 教授がものすごく惜しんでいました。その言葉に三峰は笑った。からりとしたいい笑顔だった。
「研究に必要なのは機材でも立場でもないわよ。面白い題材とやる気だけ。私にはやる気があるし、ここよりおもしろい題材が他にあるかしら?」
常盤は感銘を受けてうなずいた。その通りだ。話が終わったと判断した女研究者は書き物に戻り、再びそれを邪魔したのは一五分考えたあとだった。その通りだ。やる気があるならなんでもチャレンジしてみるべきだろう。あの・・・、という言葉に顔をあげた先輩におずおずと申し出た。
「何でもいいですから、俺もお手伝いさせてもらえませんか? 俺は実際に戦わないんで、その分いろんな観察をしてこれると思います。今はデジカメを持ち込んでますけど、ビデオも使えます」
こくりと唾を飲み込んだ。不安だった。どこの馬の骨ともわからない自分の手が必要なほど、この女性は困ってはいないだろう。なんといっても恩師が絶賛する人なのだ・・・。
峰えりかはにっこりと微笑んで手を差し伸べた。あたしの手伝いは大変だよ? と言いながら。常盤はこぼれる笑顔を隠すこともできずその白い手――研究者に似つかわしく細くて長い指――を握り締めた。思ったより強い力が握り返してきた。