まだ話中だよ。ネットに接続しようとして果たせずに真壁啓一(まかべ けいいち)は舌打ちをした。母親は本家の正月の集まりの片付けに駆り出されている。この家にいるのは父と自分だけ。親父どのは、かれこれ40分間もどこに電話しているのだろう? これでは日記に書き込めない。今日も示威行為に参加していると知っている由加里は、更新がないことを不安に思うだろう。大きく伸びをした。
ノックの音にどうぞと声をかけた。真壁は部屋を見回し、入ってきた父親に椅子を薦めて自分は床に座った。椅子に座る彼をまっすぐに見上げると、父親がすこし居心地の悪そうな顔をした。
「さっきは殴って悪かった。痛むか?」
真壁は首を振った。殴られるのには慣れてますから。それと、今日は怒られるために帰ってきたんだから。その答えに父親はそうかとだけ答え、話の接ぎ穂を探したようだった。
「なぜ相談もしなかった」
真壁は考え込んだ。この部屋に落ち着いてからずっと考えていたことだ。今にいたるも答えはわからない。とりあえず可能性の高いものを口に出してみた。反対されると思ったんだ。
「そりゃ、するにきまってる。あそこに行きたいという気持ちは、俺には理解できないがお前はそう感じたんだろう。だけどそれは、四年近く大学に通って目の前にあった学士と引き換えにするほどのものか? 卒業してから行くという選択肢は考えられなかったか?」
真壁は考え込んだ。あの時は、すぐにでも行かなければいけないと思ったのだ。第二期の募集が早めに切り上げられる可能性が高くなった今にしてみれば正しい判断だったとわかる。また、初日に試験をパスしたからこそ笠置町姉妹という安全装置と部隊を組めたのだから結果論では最適の時期だったのだとわかる。しかし、それらはもちろん自分があせって退学した理由にはならなかった。
「質問を変えよう」
真壁はうなずき、ごめんなさいと言った。自分でもわからないと。
「あの街で何が手に入ると思ったんだ?」
強さ。それは即座に回答できた。もちろん腕力でも体力でも生命力でもない、一人の人間として毅然とある強さ。それが自分には決定的に欠けており、死を目の前にして追い込めば鍛えなおせるかと思ったのだった。
「――鍛えなおせると思った、か。つまり、鍛えなおせなかったのか?」
みじめな思いでうなずく。
「今いる場所で手に入らない強さを他の場所に逃げてつかめるはずがないってことだけはわかったよ」
そうか、と父親はつぶやき、そしてふと立ち上がると部屋を出て行った。すぐにグラス二つとスコッチを抱えて階段をあがってきた。思わず「氷もチェイサーもなしですか?」と訊いてしまったが返答はない。
グラスになみなみと琥珀の色が満たされた。
「それでもお前は立派になったように見える」
そうかもしれない。隣りにある死ではなく、しかし自分はいろいろなものを見聞きしたと思う。
「あの街じゃ、みんな必死だから。大学にもいい友達はいたけどやっぱりオブラートに包まれてた。あの街だと剥き出しでぶつかってくるからさ。いい友達ができたんだ。一つ下の女の子で見てるだけで、話しているだけで勉強になる。何度も命を助けられたし。他にもすごい人がいる。本当に、これまで見たこともなかったようなすごい人たちを何人も見たよ」
そうか、と父親はうなずいた。目を細めて息子を見やる顔は、もしかしたら嬉しいのかもしれない。
「その話はまた聞かせてもらうが、今後どうするつもりだ?」
うーん、と黙り込んだ。ずっと考えて、まだ見つかっていないことだった。漠然とだけど思い描いている職業はあった。しかしどうやってそれになるのか、どんな資格が必要なのか、なにより生活していけるのか、何一つわからない。正直にそれを話した。父親は真剣に聞き、すこしほっとしたようだった。つまり、ずっとあの街で地下に潜るつもりじゃないんだな? 真壁はしっかりと答えた。
「あの街にずっといたら、俺はきっと死ぬ。それはわかってるんだ。でも、まだ今の程度なら大丈夫、死なないでいられるって奇妙だけど確信もある。それが感じられる間はできるだけ軍資金を稼ごうと思う。そしていろいろ調べようと」
しばらく二人で黙って酒を飲んでいた。父が、母さんには、とぽつりとつぶやいた。
「お前に任せておいても――心配だが――大丈夫、いや、お前の好きにやらせるべきなのはわかった。だが母さんには言うな」
「大学を辞めたことも?」
「それはお前から言え。東京でフリーターでもやってると言え。母さんは怒るだろうがそれぐらいは罰だ。だが迷宮街のことは言うな。母さんはきっと調べて心配になる」
何気なくうなずいて、そしてはっとした。そういう父親だって息子に言われるまで迷宮街のことなど知らなかったはずだ。どんな場所で、どれだけ家族が心配するのかなど詳しいことは知らなかったはずだ。なぜなら父親にとっても異界の話だったのだから。
それを今「母親に気づかれるな」という。つまり、今はもうあの街の危険を知っているのだ。知って理解して、母親には絶対に知らせてはならないと思った。真壁がネットにつながらないとぼやいていた四〇分間、それは父親が電話をしていたためか? それともどこかのホームページ――たとえば迷宮探索事業団の報告――を見ていたのではないのか? 死亡率一八%という数字を見ていたのではないのか? 父は凝視に気づかず、まだ半分くらい残っているグラスをぐいとあけた。こんなに酒が強くなかったはずだ。その手が少し震えているように見えるのは気のせいだろうか?
唐突に立ち上がり背を向けた。母さんが帰ってきたら降りて来いとだけ言い残して部屋を出て行った。真壁は慌てて立ち上がりその背中に深く頭を下げた。