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その衝撃よりもその音が、その音よりもその光景がもたらす驚きが北酒場をしんと静まり返らせた。まさか――。皿を運ぶもの、酒をつくるもの、食事をするもの、ジョッキを傾けるもの、その場にいる全てが一様に同じ思いを抱き目を疑ったはずだ。まさか、真城雪(ましろ ゆき)をひっぱたく人間がいようとは。しわぶき一つない酒場、その中でただ一人暴力を行使した越谷健二(こしがや けんじ)だけが平然としていた。
「約束をしたはずだな、雪」
一番呆然としていたのは殴られた当人だった。何が起きたのかわからないという顔で真っ赤になった頬を(腫れているかもしれないくらい、くっきりと痕が残っていた)そっと抑え、たっぷり一呼吸のあとにしょんぼりと肩を落とした。
「ちょっと頭冷やしてくる――中山さん、言い過ぎました。すみません」
とぼとぼと酒場の出口に向かう足取りに皆が道を開け、その姿が出口から消えるまで見送ってから越谷は腰をおろした。そして対面に座る男に頭を下げる。年の頃は30代になるかならないか、探索者には似つかわしくなく少し肥り気味の顔は目の前の出来事にまだ魂を抜かれているようだった。
まあ飲みましょう、と自分のジョッキを男――中山義経(なかやま よしつね)――のジョッキにかるくぶつける。あ、ああと口の中でもごもごと呟き中山はビールを喉に流し込んだ。
第一層から第四層へとつらぬく上下動のゴンドラを設置する――その計画はすでに見切り発車されていた。建造メーカーは鍛冶師と探索者の一部に対するヒアリングを始めるし、設置を仲立ちする商社ではすでにゴーサインも出た。訓練場の教官は機材運搬に必要な術を学ぶために斎戒に入り、その間の魔法使い訓練場は理事夫婦が面倒を見ている。建造工事も1月23日〜26日ということで決まりつつあった。その中で遅々として進まないのは探索者の説得であり、自然とそれを担当することになった真城雪には焦りが募っていた。
もとより探索者の合意が必要なのではない。探索者が事業団と交わした契約書にはすでに買い取り価格は事業団が自由に設定する旨明記されており、買取価格に不満があれば潜らなくて結構と法的には言い張れた。しかし事務を監督している徳永幹夫(とくなが みきお)はせめて探索者の50%プラス一票の同意がなければ許さないと言い張っている。「明らかに外の世界に対する強者である探索者のあなた方だからこそ、弱者の意見が反映できるシステムを遵守しないといけないのではありませんか」その態度は探索者の少なくない人数に影響を及ぼした。例えば第二期探索者の戦士である真壁啓一(まかべ けいいち)などは、「何かしらのルールを定めた上での決定でなければ、たとえ建設が決まっても作業には協力しない。もちろん自分は建設に賛成するが」と明言しており、彼の部隊を含む相当数の第二期探索者がそれに賛同していた。
探索の進度が深くなればなるほど利益はあがるが、浅いところで停滞している部隊には利益が少なくなる――世間一般で考えれば当たり前のその決め事も圧倒的多数が『浅いところで停滞』しているという現状では意味合いが変わってくる。それはつまり、『浅いところで停滞』するのが普通であり、深いところまで降りられることは特異であることを示していた。何しろ第一期探索者は延べ15,000人、第二期になってからでもすでに二千人近い人間が訪れているというのに第四層に達しているのは四部隊24名のみ。今回の料金改定で利益があがるのは第四層以下なので0.14%というたった一握りだけがその恩恵に浴する計算になる。いくら実力主義の現代、さらにそれが著しい迷宮街とはいえ常識で考えて許していい改訂ではなかった。
だからこそ、と目の前で酒を飲んでいる男を見て越谷は思う。だからこそ、徳永の態度(理事の直々の願いすら突っぱねたらしい!)は正しいのだし、目の前の男の抵抗も正しいのだし、真壁を筆頭とする良識派も正しいのだし、そして自分たち精鋭部隊が説得役として真城雪を選ぶのも正しいのだった。
アルコールによって少しは回復したか、中山が自分の顔を見つめた。いつから、と思う。いつからこの人はこんなに肥ったんだろう? 自分がこの街にやってきた時この男には命を救われた記憶があった。とてもかなわない、と思わせる斬撃の強力さにすくみあがったのを覚えている。それがいつしか、週に一度だけパスを更新するために地下一階に潜るようになっていた。肌はアルコールでくすみ、責任感と覇気とで輝いていた目は濁ってしまった。その姿勢は他の探索者にも伝播し、女帝は苦々しげに『腐ったミカン』と呼んでいる。
いつか自分もそうなるのだろうか? 脳裏に浮かぶのは二つの顔。笠置町姉妹のようなサラブレッドではなく、それまで格闘技の経験もないのにここに来て二ヵ月で恐ろしいほどの成長を見せた二人の戦士の顔。かたや体格でかたや一瞬の判断力で自分をはるかにしのぐ二人には早晩追いつき追い越されるはずだ。自分が積み上げた一年と少しが才能ある人間の二ヶ月にかなわないと認めるその恐怖、その事実に自分もまた堕落するのではないだろうか? 自分がついていくのが難しいから、他人の足を引っ張ってやればいいという卑劣さに毒されるのではないだろうか? 自分の限界に出会うのが怖いから、危険のない場所だけをうろつく臆病さに沈むのではないだろうか? 少なくとも、絶対にそうはならないという自信は身体のどこにも見られない。
「なあ」
中山の声に意識を引き戻された。
「今度から雪ちゃんじゃなくてお前さんが交渉役になってくれねえかな。あの子相手だとおっかなくって」
越谷は静かに首を振った。俺たちの旗は、やっぱりあいつが振らないとダメなんです。
あいつだけが、きっとあいつだけがこの街に来た時の熱意、希望、ポジティブさというものを欠けることなく持っていられる人間だから。あいつが探索者全体の気持ちを盛り上げこれから引っ張っていくことになるだろうから。力の限り降りていってやる――そんな気持ち、中山さんも昔は持っていたのではないですか?」
ぐ、と詰まった。
「他の誰でもないあいつが先頭で旗を持っているからこそ、探索は続いていくんだと思います。どうかつぶさないでやってください」
筋力に劣る女帝の戦法は、体重と遠心力を乗せた剣先で叩き潰すというもの。隙が大きいその戦法を続けていくのは大変な恐怖だろう。それをかけらも感じさせずに敵中に突っ込んでいくその姿がどれだけの探索者に勇気を与えていることか。
何度でもお願いにあがります、そう言って越谷は頭を下げ、中山は黙りこくった。