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もともと地下の温度は低く零度に近い。それでも、のっぺらぼうと呼ばれるその化け物が現れるとさらに二〜三度涼しくなるような気がした。こいつは地上に持っていったらクーラー代わりにならんかしらね、といつもどおりにのんびりと考えて、高田まり子(たかだ まりこ)の顔がこわばった。そうだ。今日は初心者を連れてきている。彼はきちんとのっぺらぼうについて学習してきているだろうか? 視線を送ると立ち尽くしており、その表情は緊張しているようだが――明らかに彼を目標に実体化を始めた化け物を気づいているのかいないのか、両目をしっかりと閉じて歯を食いしばった顔からは読み取れない。なんといっても今日初めて地下での顔を見る相手なのだから。
見る間に実体化していくおぼろげな上半身。それは、もしも性別があるのであれば女性なのかもしれない。ツナギの両腕に絡める腕はなまめかしく、目鼻のない顔は津差龍一郎(つさ りゅういちろう)の顔を親しみさえ込めて覗き込んでいるように思える。しかし――たとえ親しみを感じられたとしてもそれを受取るわけにはいかないけれど。目を閉じるとまだ、のっぺらぼうの腕に抱かれて急速に老化していったある女性自衛官の映像が浮かぶ。あれは同じ女性としていやだ。
津差は動かない。すさまじい緊張を見る限り、津差も確実に感じ取っている。その上でギリギリまで何かを測っている。この階層でなお自分を試せるなんてすごい男だわ、と感心した。
「ちょっと! 津差さん! 気づいてる!?」
治療術師である縁川さつき(よりかわ さつき)が悲鳴をあげた。彼女からは津差の表情が見えない。だから無警戒の棒立ちに思えるのだろう。すっと片手を上げてその焦りをとどめた。邪魔をしてはいけないと思ったのだ。どんどんと実体化が進んでいく――
無言で黒田聡(くろだ さとし)が動いた。彼も津差の表情を見て静観してはいたが、さすがに冗談にならない状況だと第四層を潜り抜けている経験が教えたのだろう。実体化を終えようとしているのっぺらぼうの腕の中から弾き飛ばそうと手を伸ばした。そしてその手が届くかと思われた直前津差が動いた。抱きしめるようにまわされた腕にかまわず、両腕を左右に跳ね上げる。
高田の耳はぶちぶち、という嫌な音を拾った。完全に実体化を終えているその腕、鋭いツメでツナギを貫き倦怠感をもたらす何かを注ぎ込もうとしたその腕が引きちぎれる音だった。
咆哮。ときの声でもなく雄たけびでもなく、それは獣の叫びだった。
両腕をはねあげたまま、さらに上半身を大きく回転させた。それは人間というよりも巨大なミキサー、しかし刃ではなく回転するするのは丸太だった。高田は――おそらく他の仲間たちも見た。表情がないと思われていたのっぺらぼうの顔がいびつにこわばるのを。明らかにこの化け物は、非常事態に対して通常よりはるかに高密度になって硬度を高めようとしていた。それが表情の変化として現れているのだった。相手を抱きしめたと思ったらその腕を引きちぎられたのだ。その対応も当然かもしれない。しかしこれまでの一年以上の探索で一度として見たことのない形相だった。
片腕はちぎられたが片腕のツメはしっかりとツナギに食い込んでいた。それは怪物にとって幸か不幸か。振幅の大きさ回転の速度ともに常軌を逸した旋廻をする巨人に引きずられるようにその身体が振り回される。
ツメが外れた。
うおっと悲鳴をあげてしゃがみこんだ神足燎三(こうたり りょうぞう)の頭の上を片腕がひきちぎられたのっぺらぼうの身体が飛ばされていく。それはゆうに三メートルの距離を飛び鍾乳洞を思わせる壁面に――めり込んだ。
普段よりも早く静寂が訪れたのは、津差を除く全ての人間が――おそらく、他の生き物が様子をうかがっていたらその生き物も――息を潜めていたから。五人の仲間達は荒く呼吸する大男と、密度を高め硬質化したのが仇になったか壁面を完全に陥没させて埋まっている化け物を見比べた。
「初めて三原さんの戦いを見たときは、あんな驚きはもうないと思ったけど――」
縁川が気の抜けたように呟く。高田はうなずいた。これは、もう、なんというか――理解に苦しむ。
剣を抜くことなくこの階層でも厄介な化け物を撃退した新米探索者は、額の汗をぬぐいながら満足げに笑った。