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言いたいことはたくさんあった。つい先日会ったばかりじゃないか。不安ならどうして言ってくれなかったんだ。勝手に決めて押し付けられても困る。だいたいもう次がいるってのはなんだ。それら全てを押しつぶしたのは、恋人の話がまだ続いていたから。初めて大声で喧嘩した翌朝にこれじゃ埒があかんと笑いあって「頭に血が上っているときは、相手の言葉を絶対にさえぎらないようにしよう」と決めたことを思い出したからだ。あの朝、これまで引っかかっていた大きな何かを乗り越えたような気がした。それはとても温かい思い出だったからその決定だけはないがしろにしたくなかった。
しかし、と目に涙をたたえながら吶々と話す神野由加里(じんの ゆかり)の顔を見て思う。多分、一つや二つ乗り越えた達成感くらいで安心していいようなことではなかったのだ。遠距離も、片方が生死の境にいるという状況も。視線を下げると小さく細い指がきゅっと組まれていた。普段から白いその指は力の入れすぎでさらに血の気が引いていたが、何より真壁啓一(まかべ けいいち)の意識を奪うのはその指先だった。うっすらと塗られたピンクのマニキュアが(爪はまるく整えられているのに)心に刺さる。目の前の恋人は決してマニキュアを塗ることはなかったはずだ。どういう心境の変化かはわからない。食べられなかった食べ物が実は食わず嫌いだったということを発見するような、その程度の些細なことなのだろう。だけど一つのことだけはわかる。
どんな些細な変化であろうと、それが恋人の中に起きた瞬間自分はこの娘を放っておいたのだと。遠い場所にいたのだと。
感極まったのか、恋人の――恋人ではなくなろうとしている娘の左眼から涙が零れ落ちた。流れていくそれが自分のこわばりもほぐしていくような気がして右手を差し出した。娘はびくりと身をすくめるが伸ばされる腕を避けようとはしない。卓上のナプキンでそっと涙をぬぐった。
言葉が途切れた。何を話されたかまったく覚えていない。一つ息を吸い込んだ。
「当面連絡はしたくないな。由加里も克巳も大事な友達だけど、しばらくはムリだよ。この街から出て落ち着いて、新しい彼女でもできたら木村さんを通じて連絡する――克巳とはうまくやっていけそう?」
困った表情にまた涙がにじんだ。そして自分を殺したくなった。俺は最低だなと呟いて苦笑した。
最低な振る舞いしかできないようなら立ち去るべきだ。伝票を手に取り財布から小銭を並べる。そして席を立った。女はただうるんだ目で自分を見上げている。そっか、店で俺が立ってももう立ち上がらないんだ、由加里は。そんなことを他人事の考えた。
「いかんね、ドラマみたいな捨て台詞が思い浮かばない」 そう言って見せた笑顔に涙をたたえた顔も苦笑を返した。それが引き金になったのかまた涙がこぼれ、差し伸べられた小さな手が袖を掴む。思ったよりも強い力にたじろいだ。
渾身の努力でそっとそれを外させた。感情だけで動くとろくなことがないのはこの街で知ったことだ。もう他の男を選んだ女が罪悪感と情だけで選択を覆すのは間違いだろうし、それをつなぎとめようとするのも間違いだ。
「達者で」
レジに向かう。ガラスに自分たちが座っていた席が映るのに気づきあわてて視線を外した。そこに座る娘が自分の背を見送っていても見送っていなくても傷つくことがわかっていたから。