神野由加里

 09:08

コーヒーカップを持ってコタツの脇に行くと、神野由加里(じんの ゆかり)は携帯電話の画面をじっと見つめていた。さっきからずっとこれだ。誰からのメールを待っているの? 二木克巳(にき かつみ)がそう問い掛けると、うん、と生返事で携帯を渡された。画…

 14:05

「あら」 「おや」 「わーい」 「・・・・」 京都駅前伊勢丹デパートの六階で三人が驚きの声をあげた。真壁啓一(まかべ けいいち)はデパートを歩く人間には似つかわしくなく空身でにこにことその三人を見ている。ちょうどよかった! という笑顔になにがだ…

 10:32

言いたいことはたくさんあった。つい先日会ったばかりじゃないか。不安ならどうして言ってくれなかったんだ。勝手に決めて押し付けられても困る。だいたいもう次がいるってのはなんだ。それら全てを押しつぶしたのは、恋人の話がまだ続いていたから。初めて…

 22:12

パスワードが違います。 画面に映ったその文字に首をかしげた。そして思い当たる。仲間へ公開するためにパスを変えると電話で言っていたし、新しいパスはメールで送られていたはずだ。メールソフトを立ち上げ、受信フォルダの一番上のものをクリックした。太…

 06:12

一時間の仮眠だけで朝六時少し前にはたどり着いた。二木克巳(にき かつみ)は迷宮街の検問外で車を停め、徒歩で街の入り口へと向かった。検問という言葉のもたらすイメージとは違い徒歩の人間であれば何時であろうと通過できるようだった。木賃宿の場所は係…

 23:42

もう何度目か忘れたくらい発信ボタンを押した。返ってくるのは相変わらずの呼び出し音だった。ため息をつきもう一度リロードのボタンを押す。相変わらず、昨日の日付の日記が再表示された。 携帯電話を繰り、一つの電話番号を表示させた。しばらくじっと見つ…

 18:03

トン、トンとキーボードの端を指で叩いている。この椅子に座ってから一五分、いつもなら一日分の日記を書き終えて席を立っている頃だ。しかし今日は一文字も書くことができずにいた。大きく伸びをして、真壁啓一(まかべ けいいち)は視界の隅に立っている人…

今日は進藤くんと海老沼さんに稽古をつけてあげた。進藤くんはその体格もあってまったく問題なし。運動神経もいいみたいだし、あとは慎重に場数を踏むだけだろう。でもまあ、改めて思うのは津差さんのすごさだな。巨大な進藤くんよりも津差さんはまだ七セン…

 24:02

さあ、燃料を追加しよう! と叫んだ木村ことは(きむら ことは)はもう本日は夜明かし決定であると態度で明言しており、補給部隊に命ぜられた二木克巳(にき かつみ)、神野由加里(じんの ゆかり)はコンビニに向けて歩いていた。 元気そうでやっててよかっ…

 23:25

「すっげー! 啓ちゃんがしゃべってる!」 「ほんとだよ、ってか痩せたな啓一!」 「かっこよくなってるよね!」 ロープウェイに乗っているときのように、急激な気圧の変化に鼓膜が張り詰めて唾を飲み込むまでは外の音がなんとなく別の世界の出来事になって…

 17:28

「おや、克巳も早いね」 奥野道香(おくの みちか)の言葉にテレビの前に座っている同級生が振り返って笑った。いま来たところだよ、という彼の名は二木克巳(にき かつみ)といい、大学ではゼミそしてフットサルのサークルでも同期にあたった。この部屋の主…

 22:17

頭の中でいろいろな理由が渦巻く。立ちくらみに似た感覚に意味もなく自分の頬に触った。鎖骨、肩、そこに実体があることを確かめていく。 問題は理由ではなく意図だった。自分しか読者がいないこの日記において恋人は誰から何を隠そうとしたのか。 昨夜、日…

 17:45

約束の場所には一五分前に着いた。もう、この距離を自転車で走らなくなって四年経つ。しっかりと時間を読み違えてしまった。寒いなあ、いやだなあ、退屈だなあと最後のカーブを曲がって開けた駅前には見知った人影が一つ。よかった。これで退屈だけは紛らわ…

 12:32

腹減った腹減ったと唱和しつつ示威部隊が地上に戻った。留守番役の太田憲(おおた けん)、落合香奈(おちあい かな)がお疲れ様と出迎え、ビニール袋の中から折り詰め弁当を取り出した。そして大きなお鍋。これは落合が北酒場のコックに頼んで作ってもらっ…

 20:57

ぱっと見た限り普通の地方都市って感じなんだな、というのが夕方から歩き回った木村ことは(きむら ことは)の印象だった。あえて違いを探すなら車の往来が少ないから車道を平気でママチャリが走っていること、道行く人間のうち肥満者の率が甚だしく低いこと…

ふー。さあ、カレンダーにまたバツをつける日々が始まる。今度は三月九日。ゼミの女性陣の卒業旅行の前、由加里だけ関空出発にしてくれるとのこと。あと二ヶ月とちょっとだ。夕べ越谷さんに訊いたら鞍馬温泉までは自転車が簡単に通行できるくらいの雪だとい…

 7:42

高崎和美(たかさき かずみ)は階段の上に男の影を見つけて顔をこわばらせた。木賃宿と呼ばれる彼女の勤め先、三階部分は基本的に男子禁制なのだ。四階から上に行くために通る可能性は確かにあるが、男性はエレベーターを使用するように暗黙の了解ができあが…

今年も残すところあと三日。日記をつけ始めたのが11月1日だったから、もう二ヶ月も続いたことになる。最初の頃にあった「明日死ぬかもしれない」という切迫感はいまはもうない。別に死なないと思っているのでもなく、死んだら死んだで仕方のないことだと受け…

 13:25

妹の名前を呼びながらドアを開けたら見知った顔が振り向いた。部隊の仲間の常盤浩介(ときわ こうすけ)だった。最近妹と仲がいい。お邪魔してますという顔に微笑んだ。 「今日私帰らないから、ご飯つくるならいらないよ」 「りょうかい。どこに行くの?」 …

 8:27

夢オチだったのか、とぼんやりとした世界の中で思った。明日死ぬかもしれないと思って眠れなかった夜、皮膚を裂く刃物の痛み、生き物の死体を削り取る刃とどろりとした鬱血が流れ出す感触、親しかった人間の死に「死んじゃったのか」としか思わない異常性・…

今年の探索はすべて終了。昨日も書いたように今日は第二層までの探索とエディの部屋だけで早めに終わらせた。もう年末だからだろうか? エディの部屋も新参(といっても、俺たちと一ヶ月弱しか違わないんだけど)の部隊が二部隊いるだけだった。彼らは地力が…

 11:23

車両に乗り合わせた女性は目的地が同じようだった。決して美人ではないがほんわりと柔らかい印象が少し気になっていたが、出迎えてくれて手をつなぐ相手がいる女を追っていても仕方ない。それよりも、と男の方に意識を向けた。ひきしまった身体つきと立ちの…

気分が悪い。 原因はわかっている。津差さんの部隊の新しい治療術師、幌村幸(ほろむら みゆき)くんと話したからだ。彼は俺より一つ年上、一浪して東大だそうだ。努力の結晶と安泰な将来の可能性を蹴って迷宮街に来た彼はそういった経歴を隠すでもなく誇る…

翠の一言にドキッとさせられる。 最近北酒場でよく噂されているのよねーとのことだった。この娘は生まれか家庭環境かわからないけれど非常に耳がいい。しかも入ってきたもの全てにとりあえず気を配っているらしく、離れたテーブルの会話などを突然耳打ちして…

 12:42

「あれ、花園さん携帯の番号変えました?」 『お? おお。十月くらいに酔って店に忘れたらしくて。連絡してなかったか』 「相変わらずですね。お仕事はいかがですか?」 『信じられんが六時半起きにも慣れたよ。人間ってすごいな。ところで真壁のことなんだ…

 23:16

入力することでその日記を読むことができるパスワードは自分たちのプライベートな数字だったから、現在の読者は自分一人だけだと確信できた。真壁啓一(まかべ けいいち)がこれを書き始めた当初、神野由加里(じんの ゆかり)にとってその日記を読むことは…

天気は良く、めぐり合わせが悪い一日。 訓練場で青柳さんをドライブに誘ったら、午後からお経を上げにいくとか。お坊さんの世界でも常連客がいて、名指しで指名されると断れないのだそうだ。翠でも来ないかなとぼんやり待っていると、姉妹でおめかしで出かけ…

 20:17

店員の手にある皿を見て奥野道香(おくの みちか)は叫んだ。誰も触るな、動くな、そのコロッケは私のだ、と。サークルの後輩たちの試合を観戦したあと財布の機能を多分に期待されつつ打ち上げに招待された。自分と同じ四年生はゼミも一緒になる二木克巳(に…

昨日国村さんに教わったように、筋肉を意識しながらジョギングとストレッチを中心に午前いっぱい汗を流した。実際に意識してみると、自分の動きは雑なんだということがよくわかる。同じお皿を持ち上げる動きでもきちんと筋肉を理解して効率よく動かしたほう…

 19:18

夕食前の来客はセールスなどではなかったようで母の嬉しそうな声が聞こえてきた。軽い足音に続いてドアをノックする音がする。さすがに一昨日までここにいただけのことはある、勝手知ったるなんとやらだわと思いながらどうぞと声をかけた。 ドアを開けて入っ…