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店頭からはアルバイトとともに検品をしている妻の声が聞こえてくる。二十日は各種雑誌の入荷日なので検品作業も書籍並べのアルバイトだけでなくレジの女性にも入ってもらっているくらいだから、自分もすぐに行かなければならないのはわかっていた。しかし視線は一通の書面に吸い付いて離れない。それは彼がかつて関わった組織からのものだった。
迷宮探索事業団というその組織では、今回成分買取の料金改定を行うにあたりまだ探索者登録を抹消していない人間にも賛否を問うのだそうだ。その文面にはネット投票する際の探索者番号とパスワードが併記されていた。これまでの探索者保護とも思えた完全定額買取から各成分の需要に応じる変動買取へ。それは市場経済から見れば当然の流れだけれど、ちょっと厳しいと思ってしまうのは再販制度に慣れているからだろうか? 苦笑する。
改訂自体には賛成の熊谷を縛り付けているのは改訂までの背景だった。濃霧地帯奥の巨大な穴――あれか、と懐かしく思い出す――は実は第四層まで直結していた。商社がそれを貫いて上下動するゴンドラを設置する、引き換え条件としての買取額改訂だった。なるほど、いよいよ迷宮探索が事業団主導から企業主導に移行するのだなと感慨深い思いがある。探索活動は英雄的事業でもなんでもない、単なる商業行為なのだということをいよいよ企業側が出し始めたということだろうか。詰め所出口でお茶を飲んでいるだけの好々爺はやっぱり油断ならない商売人だったのだ。
そして、書面にはどうして縦穴であると判別されたのかの事情も詳細に書いてあった。死亡者の実名が書いてあるほどに詳細に。
「サイクルスポーツが一部!」
「はーい、オッケーです」
「あれ? この雑誌先月売れ残ってたわよ。売れないのに仕入れてるの?」
かましい、と苦笑した。その雑誌は迷宮街で仲の良かった戦士がよく読んでいたものだった。普段は穏やかだったが、自転車レースの事に関しては興奮して顔を赤くしてしゃべっていたものだ。フランスで行われるレースのライブ放送を見ようと、皆でお嬢と呼ばれていた女のロイヤルスイートに押しかけて飲んだときのことを覚えている。自転車、ダンス、生け花、ビリヤード、飲食店経営、エトセトラ・・・。こんな片田舎になぜ? と思われるだろうそれらの雑誌が入荷されては返品されていくのは彼らを懐かしむからだ。あるいは陰膳なのかもしれない。遠い西の街で毎月好きな雑誌が読めるようにとの。彼らはいまも元気でいることだろう。
元気でいて欲しいと心から思う。
「こらー! 寝てるのか!」
愛する妻の声。もう一度視線を書面に、そのなかの一つの名前に落とした。
数秒の逡巡ののち、熊谷は紙片を折りたたむとポケットにねじ込み店内へと続くドアを開けた。