13:25

お前のそれいいなあ、と呟いた声は低く小さかったために津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はまず自分の正気を疑った。化け物たちはさすがに力押しの愚を悟ったか今では50メートルほど離れた個所で陣を敷き、しきりに威嚇の声をあげている。それは絶えることなく壁面に反響して決して近くない距離にも関わらず、探索者たちの陣にあっても大声でなければ会話が成立しない状況を生み出していた。だからその中でこんなかすかな、ささやきともいえる呟き声が耳に届くはずがないのだ。幻聴か、実は疲れているのかな、とこきこきと首をひねった。津差自身はまだまだ戦える。ツナギのポケットから探索者基本セットの一つ、Gショックの懐中時計(迷宮街限定!)を取り出した。13時25分。周囲を見渡すとほとんどが津差と同じように地面に座り込み、肩で息をしている。
これじゃいっそのこと接敵している方が楽かもしれないと少々の焦りとともに感じた。電気設備の未設置な場所であるために、既に作業が終わり八基の作業用ライトのうち六基を防衛線を照らすために使用しているとはいえ、迷宮内部はあくまでも普段慣れている状況よりも暗い。その中で間断なく響く威嚇の声は実際に姿が見えない分だけすさまじい恐怖心をもたらしていた。
そんなことを考えていたら頭をこづかれた。なんだ? と思い見上げると理事である奥島幸一(おくしま こういち)が自分を睨んでいる。慌てて直立したら奥島はうろたえたようにあとずさった。すみません、なんですか?
いや別にそれほどかしこまることじゃないんだが、お前の剣は頑丈でいいなと言っただけだ。そう言う奥島の手元は鎖の先端の分銅、ひしゃげてしまったそれを新しいものに付け替えている。津差の剣は調査のために鍛冶棟から貸与された特別製だから気づかなかったが、普通なら武器が壊れるほどの戦闘を経過してきたのだった。替えの鉄剣は大量に置いてあるが自分の使い慣れたサイズというわけにはいかない。今後これがネックにならなければいいけれど。とにかく理事には、自分のは特別製ですからと微笑んだ。
その微笑を地響きが曇らせた。これだ。先ほどから何度か聞こえてくるこの無気味な音は一体なんだろう? しかも今度の地響きは――近い。それはもしかして、怪物たちが後退した事とかかわりがあるのだろうか? 暗闇は自分の心も侵食しているらしく全てが不安に感じる。馬鹿を言うな、と自分を叱咤した。もしも敵さんに手っ取り早く俺たちを撃退する手段があるのなら、もっと早く使っているはずじゃないか・・・。
取り留めのない思案はさらに意外なもので中断された。さらに大きくなっている地響きを圧するほどのそれは背後から聞こえる喜びの歓声だった。こんな状況で、誰が? 奥島も気になったらしく、兄ちゃんちょっと振り向いてくれないかと小声が届いた。これほどの達人となると、この威嚇と地響きと歓声の中でも届かせるささやき声を使えるらしい。津差は振り向いた。
少なくとも地響きの正体はわかった。上下にうがたれた縦穴を異様なものが降りて来ていた。転移の術ですぐに第三層に来た津差はそれを見たことがなかったのだ。外見にこだわる性格でもなかったので迷宮街に広まっていたゴンドラのイメージスケッチも見ないでいた。だから、作業用の照明を浴びながらゆっくりと降りてくるカボチャの馬車は理解を受け付けなかった。説明しづらいものが降りてきていますとだけ答え、実際に見てもらおうと思って敵のいる方向に視線を戻した。代わりに振り返った理事は自分よりも事態を把握したらしく、もうゴンドラは動くのか! と喜びの声をあげた。これで作業員と自衛隊員を帰せるな!
そうか、やっぱりあれは趣味の悪い悪夢ではなくゴンドラなのか。自分は今後あれに乗るのか。自分がその窓からにこにこと外を覗いている姿を想像した。そのアンバランスは却って愉快に感じられ口元が緩む。
「ナミー! 無事!? ナミー!」
聞き覚えのある声はアマゾネス軍団のリーダーである真城雪(ましろ ゆき)のものだった。津差はもう一度時計を見下ろした。彼女たちの部隊は15時に集合して到着は早くても16時のはずだ。どうしてこの時間に来ている? ナミー、返事をしてよ! という悲鳴のような真城の声、おそらく仲間の危険にいても立ってもいられなくなったのか。しかしこれは、正直ありがたい。まだ続く歓声はゴンドラが出来上がったこともあるだろうが、彼女たちがやってきたことにも向けられているはずだ。
疲労を忘れさせてくれる浮き立つような気持ちを突き動かされ、津差は腹の底から咆哮した。隣りで理事がぎょっとしたように見上げてからにやりと笑い同じく野太い叫び声をあげた。疲れきった探索者たちも、自衛隊員も、作業員たちもみな和し洞窟内部を震わせる。怪物たちの威嚇の声は完全にかき消されていた。