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さすがにサラブレッドというべきか、あっという間に呼吸が整った。そしてなんでもないように「萩に行きたいって言ってなかった?」 と。真壁啓一(まかべ けいいち)はうなずいた。そう、確かに言っていた。しかしそれよりも多い回数、(意識して)「東京に戻る」 と言っていたはずだ。どうしてこの娘は自分が東京に行かないと思ったのだろう? それともセンサーかなにかついているのか? とうろたえる気持ちは心中が動揺しているから。気を抜くと目の前の娘に取ろうと決めた態度を守れないから。
はい、と鮎寿司を渡された。ああ、ありがとうと木偶のように呟いてそれを受け取った。笠置町翠(かさぎまち みどり)は寂しそうに微笑んだ。
「もうちょっとね、もうちょっと何かしてあげたいんだけど。これがこの三ヶ月の礼になるとはとても思えないけど、私にできるのはここまでだろうから仕方ないね」
まっすぐに見つめてくる瞳は潤んでいる。視線を外そうとして一つ息をついて、しかし視線はそのままにとどめた。外せなかった、というのが正しい。
口をついて出たのは自分でも予想外の言葉だった。
「俺からも最後に、鮎寿司を買ってやるよ」
きょとんとした表情。あ、えーと、うん。ありがとう。
大きく息を吸い込んだ。
「よかったら一緒に食べよう――車内で」
目を見開く。綺麗な頬を涙がこぼれて流れた。右のこめかみにはうっすらと傷跡。アザだけだと思っていたものは、光線の加減であとが見えてしまうらしい。
翠はひとつ息を吸い込んで、答えの言葉を呟いた。
ホームに電車がやってきた。危険な位置に立っていた者でもいたのだろうか? 警告の汽笛が空気を震わせ、轟音があたりを満たす。不器用な求愛への返事はそれによってかき消された。それがどんな返事だったか、向かいに立つ男にきちんと届いたかどうか、それはきっと二人だけが知ればいいことなのだろう。
 
 
和風Wizardry純情派 終