静止した状態から2m弱の跳躍、そして屹立。全身に気をみなぎらせてこちらを見つめてくる葛西紀彦(かさい のりひこ)の視線に対し、お前は真城雪(ましろ ゆき)か何かか? と胸の内で毒づいた。そして慌てて平常心を自分に言い聞かせる。野村悠樹(のむら ゆうき)は軽く腰をひねり右拳で空中を突いた。空気を叩くパン! という音にぎょっとして会場が静まる。それには気づかずに突きの速度を高めていった。皮の鞭を振ったような、異様な甲高い音が会場に響き渡る。これはチャンスなのかもしれない。
同じ時期に探索者になり、しかし違う境遇を歩んできた。空手との複合剣技で早い段階で名を知られ上位部隊に引き抜かれた自分と、いくつもの部隊の壊滅に立ち会いながらも被害を最小限に、本人は重傷を負いながらも何度も後衛たちを守り抜いて信頼を培い少しずつ部隊をあがってきた葛西。対照的だったればこそなんとなしに気があい、訓練も自然と一緒に行うようになっていた。そしていまだ勝ったと思えたことがない。
突きは当たる。蹴りは頭をなぎ払う。そうして体勢を崩し首筋に剣をあてることもできる。そしてまいったと言われる。傍から見ていれば実力差は歴然と思えたことだろう。しかし野村自身はといえば「悠樹の器用な戦い方にはついていけん」と悔しそうに床を叩くその姿を見て、何がまいっただこの野郎という憤りを感じずにはいられなかった。人間の壊し方を学びそれを実地で体得するためにこの街に来た自分だからこそ、相手を壊すためにどの程度の打撃が必要なのかわかる。そして葛西に関してはどの程度の打撃があればいいのか結局わからなかった。突き? 蹴り? 訓練の場でならともかく地下での殺し合いであったら、自分が与えたどの打撃だってこの男を止められるものではない。その寒々しい自覚。
勝つなら簡単だろう、とはセコンドについた女戦士の言葉だった。その顔をじっと見る。勝つだけで満足できるならとっとと勝っておいで。部隊のリーダーでもある彼女は言外にそう伝えていた。そう、勝つなら簡単だ。しかしせっかくのこの舞台、さんざんプレッシャーのかかった中でなら自分はもう一段高いところに行けるかもしれない。これはチャンスなのかもしれない。
「殺してきます」
呟きは小さかったから二人にしか聞こえなかった。神田絵美(かんだ えみ)はぎょっとした顔をしたが女帝はにんまりと笑った。そして既に準備している葛西に向かってヘルメットかぶれ! と叫ぶ。そのセコンドについている星野幸樹(ほしの こうき)も何か納得したようにヘルメットを手に取った。彼も歴戦の戦士なのだった。
ヘルメットをかぶせられ頭を抱え込まれた。すぐ近くには上気した整った顔がある。黒豹の毛皮の色できらめく瞳にはまぎれもない殺気がこもっていた。こういう場ですらかっちりと紅の引かれた唇が何かをつぶやくと、かき回された空気が甘い香水の刺激と「ぶっ殺せ!」という単語を運んできた。小さく「おす」と返事をする。
「ぶっ殺せ!」
今度は大きな声。先ほどとは違う理由で会場が静まった。
「おす!」
「ぶっ殺せ!」
「おおす!」
「ようし行って来い!」
訓練場のツナギには衝撃に強い生地が使われている。言葉と同時に背中を叩いたその掌は、そんなツナギを歯牙にもかけず野村の骨に髄にと揺さぶりをかけてきた。これが意志の、覚悟の力だ。洗練された破壊の技を磨いてきた自分にもっとも足りないもの。それを手足に込めることができれば、眼前の覇気と覚悟の塊を倒すこともできるだろう。葛西とぴったりと視線を合わせる。もう悪いイメージはまったく浮かばない。