息子の部屋にあるどんな格闘漫画でもサウスポー相手は苦しむものだったが、訓練場でしばしば打ち合っていた葛西紀彦(かさい のりひこ)にはそのハンディはないようだった。裂帛の気合を篭めた切込みが矢継ぎ早に繰り出され、どちらかといえば押されているのは野村悠樹(のむら ゆうき)の方だった。空手の手技足技を絡めた戦法が得意な野村だったが、最初の右ハイキックを葛西がガードせずに頭で受け止め切り込んでからは迂闊に出せなくなってしまっている。空手技を出すならば一撃で絶命させうるものでなければならず、そして自分の技はまだ目の前の男の命を刈り取るに値しないと思い知らされたのだった。戦士としてよりはるかに長い時間を一人の武道家として精進してきた野村には身を灼くような屈辱のはずだ。それでもさっぱりと空手技を捨てて剣術で打ち合うその姿には張り詰めた覚悟が感じられる。意地でも最後は空手の技で決めるはずだ。今はその気力を練っているに過ぎない。
ベスト8を決める試合からは審判をおおせつかったものの正直なところ退屈だろうと思っていた。訓練場の教官である橋本辰(はしもと たつ)にしてみれば誰も彼もがまだまだ未熟、そんな中でこともあろうに『最強トーナメント』とは! と苦笑を抑えられない。現に自分がいたずらで名前を書き込んだら大半の戦士たちは青い顔をしていた。とんだ最強もあったものだ!
しかし、と目の前の二人を眺めて思う。技量はまだまだ、しかしその意気だけは最強の名に恥じないと思う。
葛西の木剣が右にそれた。おっと! それは誘いだぞ野村くん。無視するか? 虎穴に入るか?
虎子を得ることにしたらしい。よし! それでこそ男! 渾身の右中段蹴りが再び葛西のわき腹に伸びた。葛西はまたこれを腹筋だけで受けきるだろう。そして反撃する。今度は逃すまい――。
しかし、予想に反して葛西は左手を木剣からはがしガードしていた。その蹴りの勢いで身体が吹き飛び、自身も耐えようとせずに跳躍を重ねたためその身体は3mほども宙に浮いた。空中でトンボを切り身体をねじり、膝立ちに着地する。視線は追い討ちに備えて野村をきっと見据えている。その顔にはしかし隠しようもない驚き。自分がわざわざ作った隙に飛んできた狙いどおりの蹴り、まさか身体が無意識にガードするとは思わなかったのだろう。
野村は追い討ちをかけようとはしていなかった。そして、何か嬉しそうな顔で葛西を見つめていた。
葛西が驚きから醒めにっと笑った。こちらもいい笑顔だった。
橋本はうらやましくなった。遠州のもとでの修行を終えてからこの仕事につくまで、自分が並外れて強いこととそれを振るう機会が与えられないことがどれだけ彼を鬱屈とさせたことか。この二人、この二人のような関係が築ける誰かを自分が得ていたら、もっと違った(なにがどう違うのかは想像もできなかったが。なにしろ十分幸せな人生なのだから)、そう、もっと朗らかな何かが自分の人生を飾っていたかもしれない。しかし彼が若者と呼べた頃には迷宮街はなく、今ではもう心配にくれさせることの許されない人間を少なくとも二人背負っていた(三人目も来月生まれる)。
二人ともが大きく息を吐いた。そして伸びをしながらゆっくりと開始線に戻っていく。二人のセコンドに立つこれまた顔なじみの戦士たちを交互に眺めた。二人とも晴れやかな表情をしていた。まったくうらやましい奴らだな。
開始線で向かい合う。場内がしんと静まる。
ほんの一瞬だけ動きがあった。そして止まった。
場内の物音も止まっていた。
「あ、あの。審判。判定は」
ためらいがちのアナウンスが入る。その声で、橋本は余韻に酔っていた自分に気が付いた。ぼりぼりと頭を掻く。
「あー、俺が決めてもいいんだけどさ」
視線の先では二人が彫像のように微動だにしない。葛西の剣はぴったりと野村の首に。野村の右拳は葛西の胸の真中に。
「お前ら、自分たちでどう思う」 時が止まったような二人に問うた。それをきっかけに二人とも何事もなかったかのように直立した。
「俺の勝ちです」
「俺の負けです」
返答は同時で、そういうことだよとアナウンスの女性を振り向いた。
「勝者、葛西紀彦!」
思わず立ちすくむほどの歓声と拍手だった。圧力すら伴って四方から降り注がれるその音、その中で負けた野村悠樹のセコンドである女戦士が満面の笑顔でとびついている。自衛隊の将校である男も同じ表情で仲間の肩を叩いていた。
まったく、うらやましいぞ、お前ら。
しかしこれはこれで悪くない人生かもしれない。こいつらを導いていくというのは。